私は帰宅の際、当然秋葉原駅に降りる訳ですが、昨日ふと千葉行きホームにあるデパート口に目をやると、55年間の利用に感謝する文言と共に閉店の知らせがございました。跡地はどうせイパーン人用の商業施設となるのでしょう。ドンキ進出により、存在意義をほぼ奪われましたからね。アキバにある消耗品を売る大型店という存在意義を。
時代といってしまえばそれまでですが、駅前の再開発はどうも近未来型開発都市こそが美しいと考えている連中が作っているようにしか思えません。噂によると、都市開発の素人であるエヌ○ィーティーが関わっているとか。 しかも、アキバ開発は名古屋の再開発の練習用としてやっているとか。これはテレ東からのソースだそうです。
こうしてハコモノによる進出で
「ほおら。オタの街じゃないでしょ?オタなんて居ないじゃない。オタグッズ売ってる店はさっさと散れ!」
とまあこういった流れを創るつもりなんでしょう。
画一的な都市なんかいらないわけですよ。それは地理学的観点から見ようが、オタの目から見ようが同じ事。ハード面である都市工学から見ても味気ない街ですし、ソフト面の文化地理学から見ても同様です。
街の文化や情景というのは、そこに多くの人が「意味」を付加する事で発展します。例えば、モヤイ像やハチ公像。あそこには広場があり、目印があります。しかし、あそこ以外にも広場や目印はあるはずです。モヤイ像前なんて人だらけで待ち合わせに適さないように見えます。 しかし、人は像の前を待ち合わせの場所にする。なぜか?いつからかそこが「待ち合わせをする為の場所」という意味を付加されたからです。そしてその意識を共有する集団が形成されたからです。
土地があり、何かが建造される(または更地のままである)、そこに人が訪れ意味を付加する、意味の共有が行われる。
土地→意味付け→共有された特別な場所(place)
このフローチャートでのみ、街の自然発展が行われると言っても良いでしょう。ここに強制的な意味付けを行わせる容器、即ちハコモノを創ると、どうしても面白みがなくなります。また、元々書き込まれていた意味と共有されていた思想をフォーマットすることにも繋がります。
ハコモノが出来ればそこに人は来ます。しかし、そのハコモノが画一的でありふれたものであれば、訪れる人も画一的又は、雑多な存在ばかりとなります。文化を形成するような意味付けを行わない若しくは行ったとしても当たり前の文化形成しか出来ない存在ばかりとなります。
昔ながらの景観を残そう。美しい景観を
こう声高に叫ばれますが、彼らにとっての美しい景観とは「里山の風景」であったり「近未来型の理想都市」であったりするわけです。今の景観を残そうというのは、イレギュラーな存在を認めようという意味ではなく、自分の理想系以外は認めないといった考え方なんですよね。実は。
市民はLD元社長や村上F代表に対して、金が儲かれば何でもいいのか!倫理はどうした!などと叫ぶわけですが、自分の使い勝手の良い都市形成に関しては文句を言いません。金儲けを追及した都市形成であるのも関わらず。です。