私のように適当な事を言ってれば許されるブロガー。この存在を歯がゆく思われる学者や作家の先生方も居られる事でしょう。私は半匿名という微妙な立場で常々申し訳ないと思っております。ですので、なるべく誠実な文章を、飾らない抜き身の文章をと思っているんですが、それが一番難しい。
学問的な題材を扱うブログは、様々な壁と戦うことになります。大別すれば、以下のような人が集まってきます。
1.学者 2.コメント職人(ファン・敵対勢力・信者) 3.通りすがり
中でも問題視すべきが2です。1はさほど気にする必要もありません。真剣に討論してくれる学者さんが経験上居ないとも言えませんが、大抵気付かれないか、気付いても相手にしてくれません。向こうも立場というものがあります。守るべきキャリアがありますから、下手な動きをするわけにも行きませんので。
2が一番始末に悪いことは想像に難くないかと思われます。彼らは根無し草。いつどこへ流れていくか分からない。固定ハンドルで勝手に敵を作ってくる読者を見かけることがあります。Aさんの代弁者なんだと勝手に自負し、Bさんのブログで大暴れ。Bさんのブログに詳しくはAさんのブログを見ろ!とか言っちゃって大混乱。正義の味方のツモリなんでしょうか。ブロガー全てがサイトが人気になることを望んでいるわけではない事に気付いて欲しいものです。
散々批判するだけ批判し、反論の余地を与えない。この点でもコメント職人は自由です。
私を批判するなと言っているわけではありません。私自身が他人の批判をする以上、その苦痛を避けて通ろうなんてのは不誠実千万。批判は受けます。が、否定は受け付けません。ですので、私が否定をしているようならご指摘下さい。批判は論理的に見て一定の水準で、一考の価値があるもの。否定は簡単に言えば、「バカ」だの「アホ」だのですね。
※関西人に関東のノリで「バーカ」って言ったらドつきまわされるので要注意。関西人には「アホ」で
このブログをお読みになられている方はお分りなのかもしれませんが、私は「昔からそう決まっている」とか、「学者の先生がそういってるんだから間違いない」とかこのテの権威主義者が嫌いです。「お前みたいな無名の人間が批判するなんて失礼だろう!」などと相手方のファンに怒られることもしばしば。
私は、真理の追究だなんて崇高な理想を掲げたり出来ません。私が思うのは、「間違った事をそのままにして死んでしまうのはなんか味気ない」ということです。それが結果的に真理の追究になるのかもしれませんが。
人は神様じゃないので、全ての知識を持つことはできません。結局分業体制で様々な世界を回して行きます。学問の世界でもそうです。分からない事を調べてくれる学者さんが居るからこそ、他の学者や私のような一般市民も助かるわけです。しかし、間違った情報で踊らされるのはなんとなく嫌ですよね。間違っていると知らなければ済む事ではありますが、知らぬが仏という生き方をし続ければ、進歩がないわけです。バナナは果物であって、料理の食材ではない。昔からそう決まっている。と言っていたのでは、コスタリカやキューバの料理を一生知ることは出来ないし、クジラを捕る日本は野蛮だ、アメリカ最高!と言っていたのでは、アメリカの捕鯨の歴史や、かつて日本を捕鯨禁止に追い込み、自分たちは捕っていた事実を知る事も無いでしょう。
これだけ情報があれば玉石混合になることも致し方ない。これだけ情報があるのに、人は未だに権威の呪縛から解き放たれない。宗教染みた信仰を抱き、他者の論は邪教とばかりに突っぱねる。そういう人間にだけはなりたくないものです。ネットには新しい人種の萌芽の兆しがありましたが、最近のネットの普及、ブログの知名度上昇で、オフラインの常識(権威主義・盲目的信仰)を持ち込む人の絶対数が増えました。結局はオフラインの常識がネットの常識になって行くのでしょう。残念なことです。
どうせ信じるなら、正しい情報を信じたい。
そう思うからこそ、私は常に私自身さえ疑います。自分の発言は間違いや偏見に満ち満ちていますから。それが出来ずに、心地いいファンの甘言にばかり耳を傾ければ最後。無知で醜悪な権威教教祖に成り果ててしまうわけです。