国外の人間の日本マンガ研究は非常に先進的である。と、「聞いた」ことがあります。まあ、他国のマンガ文化は一歩遅れているので、日本のマンガ研究以外にやる事が無いというのもあるでしょう。では、日本のマンガはちゃんと研究されてきたか?と問われれば、私の実感としては全くそのような事はない。です。
これについて検討したい。実は、同人誌に加える為のネタだったのですが、
どういうわけか掲載せずに余っていたので、それを元に一部を簡単にまとめておおきます。
i)マンガとは何か理解が不十分である
牛の肉のように解体すればいい物を、どこがサーロイン、ハラミ、肩ロース…という風に明確な定義付けもなされないまま放置され、マンガ論という物が荒廃してしまった。今、マンガ論などと言うと、戦後マンガ史を遠景から眺めてみた。というような物しか無いと言って差し支えない。これから考えれば、取り上げられる事のない現在進行形で連載されているものは「マンガではない」可能性さえ出てくる。
1)文学評論の後追いしか出来ないのか
反吐の出るような作家論、宇宙から何らかのシグナルを受信したかのような作品論、世相を反映しているだとか、共産主義的な思想にまみれてイルだとか、そういったマンガに無関係な要素と絡めて断罪するヨクワカラン論…。そういった文学評論のブチ当たった壁に今また、全力疾走でぶつかる必要など無かったはず。
2)マンガの解体が行われていない
マンガを評論の対象とする人間は、決定的に何らかの素養が欠落している。欠落しているならそれでもいいが、欠落しているにもかかわらず、無欠の評論を書こうとするから救い難い内容になる。単純に、絵とストーリーに分けられる以上、その双方を評価せねばならない。しかし、そういった心構えが無いために、ストーリーしか見ない画力無視評論や、画力しか見ないヴィジュアル至上主義評論、売り上げからしか物の見えない編集者評論(商業主義万歳評論)なんていうものが跋扈する。各々に見所はあるが、一面的であるために決定的に不足するものがあり、「マンガ」を見たとは言い難い評論が飛び出す。
3)評論家の出来がすこぶる悪い
産廃業者の放置した廃材でもロボコンに出られる時代、ここまで出来の悪い評論家を一体何と評すればいいものか。それはそれとして、音楽の評論はジャンル毎に住み分けがされ、評論家及び支持層が確立されている。彼らはそれらに深く愛着を抱いているというバイアスもあるが、確実に造詣の深さも兼ね備えている。しかし、マンガではどうであろうか。評論家の住み分けが出来ているか?レビュアーが常に同一人物ではないか?自分の嫌いなジャンルについて、興味も無く大して知りもしないジャンルについて評価を下すのは「評論家」としてどうなんだと。無理に受けなくても良い。
特に、エロやグロに対して異常に嫌悪するならば、それでもいいが、わざわざマンガ評論家として出てこなくても構わない。エロやグロは嫌いだから全部ダメだ!っていう結論ありきの人間に触れて欲しくない。腐臭を放ち、アカデミズムにまみれまみれた「お高くとまった評論」なんて今の時代何の価値も無い。
雑な仕事を許すばかりに、「文学評論がまともに出来なかったドロップアウト組専用評論素材」に成り下がったが為に、マンガの評論は死んでしまったのではないか。また、過去のマンガ(評論)と今のマンガ(評論)の橋渡しもできなくなってしまった。
「吉崎観音に見る古典マンガの手法」
などとかつて題してちょっとした文章を書かせていただいた。かつてのマンガの面白さが若い世代に通用する事を示すものであったが、そういった80年代以降、特に90年代からこちらの評論という物がぷっつりと消えてしまった。大系としてまとまった物が存在していない。
これはひとえに「マンガを高く評価する」などとのたまったエリート達が事の本質を忘れ、自己満足に走った結果梯子を使って高みを目指し、時代の流れに梯子を吹っ飛ばされた結果だろう。彼らの評論には理屈っぽさ以外に、「上から目線」が滲み出ていた。読者として読み、楽しむというより、「どれどれ、読んで差し上げましょうか」といった具合だ。
東京大学出身者にマンガ評論等を任せてきた出版社にも問題はあろう。
東大がダメだというより、アカデミズムの結晶化したような人間に、マンガ評論の道筋を描かせたのが失敗だ。日本のマンガ評論を復活させるのであれば、早いに越した事はない。今もマンガは生まれ、収拾がつかなくなっている。
ジャンル毎に評論家を用意し、各人の意見を取りまとめる作業をしなければ、後世になって、その時代の尺度で類推された「マンガ論」なるものが生まれ、あの世に渡った我々が歯がゆい思いをしかねない。
【終わりに】
また、いわゆる「空気系」や「ギャグ」に対しての評価が低いのも、いかにマンガが高尚で崇高で、我々エリートが解説してやるに足る物であるか。という上から目線が抜けない。これは30年ほど前からずっと言われている。結局、解説している人間が上に居るからなんですよ。一緒に楽しめていない。どれ、ちょっと小説を読む合間に見てやるか。という姿勢と、それを許してきた自称エリート「マンガ研究家」のコミュニティ。先ずは、マンガ論だのマンガ学だのがそんなに堅苦しいものではなく、面白い、面白くないを数字と能書きで語るだけでは終わらせない、血の通った学問にするところから始めてはどうだろうか。
絵画は時として原初的な情熱がキャンバスにぶつけられる事で傑作として認知される。小説は志賀直哉に代表されるように、流麗で清々しい一分の乱れも無い磨き上げられた清々しい美しさが評価される事がある。ではなぜ、マンガはその双方から評価しようとしないのか。情熱の絵画と、抑制の効いた精密機械のような文章。その相の子に対して、2種類の着眼点から評価しようとしないのは、絵画ほど高等ではなく、小説ほど見る価値も無いと、今までのマンガ論及び我々が考えてきたからではないか。