正義の名の下に、社会を健全に、明るい未来を。そう言って日本はかつて何をしたか覚えているだろうか。戦争の是非は知らんが、正義を振りかざせばその先には殺し合いしかないってのに。今でもそんな国があるでしょう。大人にもなって正義は我にありだなんて、脳が痛んでるとしか思えんぞ。
それが本当に良いか、悪いかを論じる事は大切。私は感情論者ではありませんから、科学的な検討を無視して持論を通そうだなんて毛ほども思っておりません。ですが、その論じ合う環境づくり、議論、結論という全ての過程をすっ飛ばす魔法の言葉、「正義」でもって押し切ろうとしている。そして、この「正義」についての感情的な戦争に乗っかってしまっている。
間抜け共と言ってしまって差し支えないかもしれない。論点がすり替わっている事に気付いて欲しい。価値観の衝突、価値観のせめぎあいで終始させる問題ではない。厳然とそこには目に見えなくとも社会があり、人が居る。
人文地理学的な考え方の中でもかなり異質ですが、不可視の人文地理学(インビジブルヒューマンジオグラフィーとでも言うのでしょうか)という分野があって、目に見えないものは無い物として扱う風潮、研究できないと決め付ける風潮に一石を投じる研究者が居ます。私もその学派の人間ですが、そこで行われている議論にそっくりなのです。
※人文地理学の世界で行われる正義の議論についてはこちらから
社会を良くしよう。と誰かが言う。次にこうすれば良くなると提案がなされる。しかし、反対派も居るわけです。いいや、それは違う。それはおかしい。これこれこういう理由で・・・などと、ただの提案に比べれば遥かに科学的な物言いで考えを否定する。すると、最初に提案した人物は、我が子可愛さ(自分の意見が諦めきれず)にこう言うんです。
「(社会は実体が無いのだから)どうなるかはやってみないと分からないだろう」
つまり、思考停止です。目に見えない物だから、簡単にはテストできないから、「考えるだけ無駄」だと言い放ち、次に「正義だから」と続けて持論を正当化するんです。誰でも思い付くような事は、誰にでも受け入れられやすい。社会通念として正義っぽい物には味方がすぐに付く。結果、正義と数の論理で彼らは押し切ろうとします。彼らは頭のお悪い集合体なのです。それに対して「正義」がどうのと言ってしまっては思う壺。正面から殴り合うのは得策とは言えません。集合体ではなく個々に対して懇切丁寧に話し、向き合い、切り崩すしかない。
彼らは自らを社会的弱者であると考え、にも関わらず正義の番人と信じています。
教育格差という言葉が流行れば飛びつき、「かつてない程教育格差が開いており・・・」などとやらかす。
森鴎外とかの時代はどやねん。と。ちょっと考えればすぐに分かることに気付かない。それくらいの折り紙つきのお馬鹿さんです。旧帝国大学レベルと丁稚や路上生活者。これほどの酷い格差は今の日本には無い(ありますが、減った)。自らの子供の将来が前途洋々たる物でないのは、社会のせいだと思う思考回路は、中学生や大学生がぶちかます「社会への責任転嫁」と同じです。抑圧されるような生き方をしてきたにも関わらず、それを社会のせいにする。こんな社会に子供を預けられるか!などと頭から決め付けてかかる。
ウチの親なんて中卒です。私はお金に困ることは無かったとは言え、けして愛情の十分に与えられた、安寧の家庭に育ったとは思いません。家庭内の暴力や不和はしょっちゅうです。それでも子供二人は勝手に大学行っている。結局は、少々の困難や問題があろうとも、親の不断の努力さえあれば問題は解決される。この問題を親自身が解決しようとせず、社会に責任転嫁し、政治の力で「解決して貰おう」という姿勢が子供をダメにしているのではないかと私は思うわけです。
親から子供に率先して働きかけ、子供を第一と考えて生きていれば、例え十分に愛情を表現できなくとも子供は理解します。己の努力不足、己の無能を棚に上げ、社会や政治の責任にして変革や保障を求めるだなんて、彼らが自称する立派な大人の行為とはとても思えない。
熟慮し、行動し、議論したうえで何かを決める。
こういった一連の大人らしい行為が出来ない親の子だもの。
エロマンガだろうがグロテスクだろうが、(エログロナンセンスだろうが)関係なく無能に育つのではないか。社会耐性を欠いた子供に育つように思えてならない。麦は踏んで強くなるもの。
また、こんな古臭い精神論ではなく、純粋に思うのは、親が子供に生涯をかけて一本、芯を通してやれば子供は大きく道を踏み外したりはしない。それが出来ない親の子は、悲劇としか言いようがない。勉強、勉強と言わなくても勉強が出来る奴は出来る。必死に勉強をしている育ちの良い子供ほどどこかで折れている。自分はそういうのを何度も見てきた。(「バカがうつるから僕の前を通らないでくれる?」と偏差値70超えの子に高三の時に言われたりね。その子は3度受験に失敗して音信不通だそうですが)
親が一本芯を通し、社会のどこに置いても恥かしくない子供を育てたと思えれば、それだけの努力をすれば、あとは信じてやるだけだろう。いつまでも子供の人生に濡れ落ち葉のようにまとわりつく親、年寄りほど見苦しいものは無い。
正義だ何だと言う前に、先ず自分について思考をめぐらせてみてはどうか。
【Twitter転載】
正義の名の下に、社会を健全に、明るい未来を。そう言って日本はかつて何をしたか覚えているだろうか。戦争の是非は知らんが、正義を振りかざせばその先には殺し合いしかないってのに。今でもそんな国があるでしょう。大人にもなって正義は我にありだなんて、脳が痛んでるとしか思えない。
まあ、つまりは、社会を健全にしよう!と、聞く耳持たずに正義を振りかざしたらば、最後は殺し合いになりますよ?ということです。メディア規制なんて物で生き死にするなんて馬鹿げている。メディアを規制しようと言う暇があれば、もっと子供に目をかけて、愛情を注いでやりなさい。
学の有無ではなく、本質的に頭の悪い親こそ「社会の健全化」などという言葉に弱い。勉強でも社会の荒波でもいいが、揉まれていないからカルトに吸い寄せられる大学生のような脳で親になっちまってるんだろう。多角的に物を見る能力を欠いている。