世の中に文芸好きはたくさんいる。
では、どのくらい小説が読まれているのだろうか。
そういう視点でみつめてみると、どうも小説、文芸が好きとは思えない人間が多数いる。
その証拠に、小説、文芸誌は苦境に立たされている。いや、これらに限らず、
日本の出版が危機的状況にあるのだ。
しかし、今まで以上に「小説家」なるもの「物書き」なるものに憧れる人間は多い。
これはつまり、読みもしないで書こうとしているにほかならない。
小説は読まなければならない。そうしなければ書けない。
一般的にはそういわれるだろう。しかし、そんなことはまったくない。
小説とは、人生の経験を物語に手直しする作業だ。発想力と表現力さえあれば、
本など読まずともそれらしいものは書ける。
だからといって、一切読まなくてよいというものではない。
その小説は、作家から編集者に渡る際、一度査読を受けている。
読者の目に触れる前に、面白いかどうかのチェックがあるわけだ。
そのチェック機構を素人は持っていない。
小説を大して読まない人間が上手く書けたといって持ってくるものは、
大概が学校で学んだ大文豪の小説の体で書かれている。
その評価は様々だが、巧拙を除けば、古くさい、読者が置いてけぼりなどの
問題を抱えているもの。本を読まずに小説は書けても、商業ベースの作品にはなりえない。
かといって、本を読めば小説を書けるようになるというものでもない。
これは難しいところだ。残念ながら、努力、才能、運による。
「物書きになるにはどうすればいいですか」「私に小説家になる才能はありますか」
と聞いてくる人間がいる。もっとも、編集をやっていたころに受けた相談は、
自己啓発本作家や漫画家を目指す人間からのもので、小説家ではないのだが、
似たようなものだろうということで、ここで紹介したい。
「才能はあるか」と私に問う時点で、あなたには才能はないと答えることにしている。
なぜなら「私にそんな質問をしたから」である。
そもそも、ものづくりをしたいという思いは涌き出す熱情であって、
他人がどうであるとか、暮らし向きがどうであるということは二の次、三の次であるはずだ。
それを、目的地が「成功しますか」「金は儲かりますか」となるような質問をすること自体
妙な話だ。芸術において、他人からの上っ面な評価や小銭など、どうでもいいことだ。
他人に相談するなど、自分を信じる力が足りないのだから、大成しないだろう。
冒頭で触れた小説を読まない小説家志望たち。
これはつまり、金儲けの手段として小説家を捉えているか、
もしくは、自己表現の手段として、自己顕示欲の塊が小説家を志望していると解釈できる。
認めてほしい、偉くなりたい、地位や名声、金が欲しい。
つまるところ安定したいということだが、そんな当たり前の感性で、一体何が書けるのか。
物書きとは孤独な仕事である。他人に認められることどころか、日がな一日机に向かい、
誰とも話さず苦悶の表情を浮かべ、そうかと思えばまどろんで、恍惚の表情を浮かべる仕事だ。
面白いわけがない。楽しいわけがない。アウンサンスーチーよろしく、
軟禁生活がしたいならぜひどうぞ。というくらいだ。
世捨て人然として、なんら苦悩しない自信の塊でなければやってはいけない。
文才がどうということは、ある程度まではどうとでもなる。
しかし、この人間的破戒者であり続けることは難しい。
かつての文豪たちがどんな生活、どんな死に方をしてきたかだけでも知っておいてほしい。
焼け付くような日々を送らねば、あのような名文を繰ることはできない。