久々に怒ってみたいと思います。かつて当ブログの前身だったサイトは、オタクは犯罪者だ、破壊的カルト教団だという「決めつけ」に怒ることがメインコンテンツでした。若い方には信じられないことかもしれませんが、人くらい殺すものだ、少女を強姦目的で誘拐するものだ。と、本気で信じられていました。今でもそのきらいはありますが、90年代末から2000年代初頭までは報道に色濃く現れており、連日連夜、アニメやマンガが人を殺す、ネクラな奴は幼女を強姦すると臆面もなく伝えられていた時期もあるのです。今回はそんな時代の話をさせていただきたいと思います。
オタクにとってたまったもんじゃなかった時代
ここに、90年代後半に書かれた『若者犯罪の社会文化史』(間庭充幸/有斐閣)という大学の犯罪学や一般教養の科目で用いられたといわれる教科書があります。中身は少年犯罪が凶悪化、年少化しており、かつては(我々の時代は)ありえなかったことが今の若者によって「ゲーム感覚」で行われているという、ステレオタイプの権化のようなもので、当時の識者、学者が犯罪統計や、数十年前の新聞報道といった資料にすら当たれなかったことを示す、実にくだらないものなのですが、その中に「第3章 オウム教団に見るオタク青少年の生と病理(p.267)」という章があります。
簡潔にまとめますと、オタクは犯罪者集団になりうる脅威だといっているわけです。彼に代表される学者とやらのオタク感は「学歴社会という虚構の中で上位に立ってしまったがために、厭世感にさいなまれ、この世界を破壊しようとするのだ」というものでした。氏はこの一連の流れをかつての天皇のもとに集った軍国主義になぞらえ批判しますが、何もかも的外れで悲しくなるばかり。オタクがなにもせずとも犯罪者だといわれるのは堪え難いことですし、オウム教団としてもアニメやマンガが好きではない信者の方もおられるでしょうから、オタクなんかと一緒にすんな!といったところでしょう。いずれにせよ紋切り型が過ぎています。本当にオタクにとっても、新興宗教団体にとっても、たまったもんじゃない時代でした。しかし、こういった意見は絶大な支持を得たのです。
なぜ、こんな常軌を逸した理論がもてはやされたのでしょうか。ひとつは「学歴に対する逆差別」という劇薬を、服用する口実を与えたという点にあります。一般に高学歴とされる人物は、人口比にして1割未満とされています。この世の9割以上に及ぶ多数派にとって、1割未満の存在は少数派にも関わらず学歴を持った疎ましい存在といえ、これらを体よくやっつける方法として、古来より高学歴(ガリ勉)=大量殺人犯という方法がとられてきました。そこに実例としてオタク(高学歴者)の異常な犯罪をあげつらい、イメージを強固なものへと変えていったわけです。レッテル貼りというものは、どの世界でも起こります。特に、その範囲が小さくなればなるほど苛烈なレッテルが与えられる傾向にあります。学歴が虚構だなどという時点で既に現実が見えなくなった夢の国の住人なのですが、そんなことに気づく人はいませんでした。なんせ、いじめる側は楽しいですからね。
もうひとつは人間性への攻撃でした。高学歴にも通じるところがありますが、かつてインドア派への理解は極めて乏しかったのです。バベルの塔という寓話にも出てまいりますが、人は言葉が通じなくなると争うもののようです。頭がいい者、趣味が違う者、秘密主義の者、これらは彼らにとって話の通じない敵であり、それだけで殺す(少なくとも社会的に)に値する存在なのです。
豊かな時代に生まれたから危険なのだという暴論
当時、識者が論じたオタク=犯罪者集団というレッテル貼りの論拠には、もうひとつ大きな軸足がありました。それは、豊かな時代に生まれた若者というものでした。マンガやアニメのようなものが不十分だった時代、食べるものも、着るものもなかった時代を知らない人間だからこそ、未熟であり、犯罪を起こすのだという理論です。(こういっているのは大体戦後生まれで、お前は苦労を知らんだろう!と思ったものです)
本書でもそのような部分に触れており、かつての若者は学生運動や連合赤軍といった運動によって生き甲斐を見出し、自身を成長させてきたが、闘う対象のない幸せな時代の若者(オタク)は精神的に未熟で、犯罪に走るのだとしています。戦争や学生運動などで血を流し、罪を犯すことは人を成長させるすばらしいもので、今のオタクがやらかす犯罪は許されないとのことなのですが、何をいっておるのかサッパリわからない。罪を犯すこと、命を奪うような闘いに身を置くことで人が成長するのであれば、古くは戦争犯罪も、現代のオタク(と彼らが呼ぶもの)とやらの幼女誘拐殺人も、その過程を経て人が成長する試金石、万歳三唱して迎えるべきものなのではないのか。なぜこれらを等しく扱わないのか理解に苦しみます。まあ、理解するもなにも、自分の時代が一番よいと思いたい妄想なのですがね。恥の上塗り、滑稽千万もいいところで、こんなもので学んでいた20年以上前の学生は、さぞかし無念だったろうと思う次第です。
「オタク」には、あらゆる差別要素が付け加えられてきた
オタクに対する攻撃がやまないのは、逆差別、豊かさへの妬み、若さへの嫉みという普遍的ともいえる負の感情によるものです。この負の感情に身を委ねるままに、オタクに対してあらゆる差別的要素が付け加えられたきました。識者や学者、一般人がいかに理論武装しようとも脇が甘いのは「とにかくムカつく」といった負の感情の外見だけ整えた「理論っぽいもの」のためで、そもそも闘える状態ではないのです。しかし、これからも何か起こるたびに体のいいスケープゴートとして「オタク」は用いられることと思います。皆さんには歴史に学び、冷静に対応してもらいたいと切に願います。
私はかつてのように手放しにオタクを擁護しようとも思いませんし、オタクという言葉が内包するものも増え、日々意味合いが変わるため、全オタクの代表のような顔をするつもりもありませんが、これからも、イカレポンチどもの私怨に満ちた差別には断固としてNOといってまいるつもりです。
最後となりましたが、恩着せがましくいいますと、今の時代、オタクに対する風当たりがそれほど強くないのは、先人が冬の時代を耐え忍んだからでもあるのです。オタク趣味を謳歌するのも結構ですが、ときには文化は守り、伝えなければならないということを思い出していただけたら幸いに思います。