自分たちを棚に上げて、若い奴らはとかくダメだから鍛えなおしてやろう。という、選民意識と大衆に対するアピールが始まりましたね。
大学卒業に認定試験、教育再生会議分科会が検討で一致(読売新聞)
以下引用
>分科会の中嶋嶺雄副主査は記者会見で、「授業に出席すれば、学力が身につかなくても安易に単位が認定される現実がある」と指摘した。
昔からそうだった。今に始まったことではない。大衆教育化してるんだから、見かけ上の平均レベルは下がるに決まってる。こういう事をするんだったら、今までの大学卒業生全員に対し、遡って実施してください。大体さあ、「教育とは何ぞや?大学とは?現場とは?」この辺りが全く理解出来てない素人集が、専門的な人材育成とか言ってんじゃねえ。と。
履歴書にハクを付ける為だけに大学に行く人間も居るだろう。
そして、大学…多くの場合は私立大学は、そういった人間相手に商売をしている。大学院にまで進学させたければ、全ての大学の授業料を欧米のようにほとんど無料にしてくれ。
大学教育まで義務教育化する意味が果たしてあるのか。卒業試験を課すといっても、全国統一のものではないのだから、それにどれほどの価値があるのか。柔軟な対応が求められる昨今、大学の学科教育が硬直してしまわないのか。
見た目だけ立派な案を出せば、大人たちは喜ぶだろうが。
これは、飲酒運転にまつわる現象に似ている。教員に対して免許の更新や大学院進学を義務付けても、大衆は痛くも痒くもない。先生が苦しむだけ。では、飲酒運転が問題になっているが、免許更新時にちゃんとした試験を行えという意見は出ているか?
出てはいない。講習を受けるだけだ。実地試験や筆記試験を行えば良いではないか。そうすれば、交通マナーも改善されるかもしれない。では何故、このような声が出ないのか。答えは既に皆さんの中に出て居ますでしょう。
「面倒だから」です。
運転免許は私でさえ持っています。多くの人間が持っていて、それを更新制にするとなると、自分も面倒な目にあわないといけない。それだけは避けたいというエゴです。倫理や人権主義者を気取る大衆も、結局倫理観に欠けている。
腐ったミカンは1つだけでもダンボール全体のミカンを腐敗せしめる。愚かしい人間が流布する言葉は、多くの人間を愚かしくさせる。愚かしい大人の頭脳を再生する事が先決ではあるまいか。