カントは世界でも有数の地理学者で、実は彼は「地理学者」として教壇に立っていた。現代におけるカントへの認識は、カントという人物の半分程しか理解していない。それでいて、カントを理解した等と言っている哲学者は滑稽で仕方が無い。今まで出会ってきた哲学者、特に他大学で学んできた連中のイカレポンチぶりは、ブログを昔から読んで頂いている方は了解していただける事と思う。
こんなに酷い書き出しなのは、かつて哲学者を名乗る数名にこのブログのコメント欄をズタズタにされた事がある為。多分に私怨が絡んでおります。
【本論】
さて、哲学者はカントを理解したと吹聴するが、(純粋理性批判の原著を読んだ。お前らは読んでないのに偉そうに語るな!とか)本当にカントを理解しているか。カント全集を開けば、きっとそんな事を言えなくなるだろう。そこに掲載されている論文を見れば一目瞭然だ。そこに掲載されているものの約半数は「地理学」の分野であり、自然地理の地震や風力の研究が全集の紙面上をにぎやかに彩っている。仕舞いには「自然地理学」という項や、測量についても触れている。
カントにとっての「哲学」は、社会を構成する人間と世界とのつながりを求めて行くものであって、今の社会が哲学の権威として再編集し、勝手に後付したイメージとは大きく異なる。カントの哲学は、人文地理学的な世界(社会、政治、文化)に重点を置いており、そこを理解していないとカントを理解したとは言えない。(勿論、自分はカントを理解したなどと言うつもりは微塵も無い)
カントが啓蒙の哲学者だなどと言うのは、哲学者が虎の威を借る為に作り出した幻想に過ぎない。哲学者らしい「権威主義」の凝り固まった形だと言えるだろう。カントの学問はそんなに剛直で融通の利かないものではない事は、カントの授業を受けた学生のノートや証言から分かっている。
まだ信じないと言うよりも、哲学者は絶対に他の学問分野からの批判を聞き入れないのだがとりあえず申し上げよう。カントはカリーニングラードのケーニヒスクベルク大学で40年間哲学の教授として教鞭を取ったとされるが、最も優れた講義は(自然)地理学の講義であったとされている。著作『純粋理性批判』が脚光を浴びてしまったが為に、カントは哲学者で、後の哲学こそが学問という時代の流れも手伝って、哲学にとって都合のいい編集がなされた訳書が出回っている。これは我々にとっては非常に大きな損失だと断言したい。カントへの理解を大きく妨げる障壁として、絶対権威主義「哲学」が立ちはだかるのは、他の学問分野への発展的理解や展開を認めないのと同義である。
かつて、こういった主張を展開した際、カントは哲学者であって、政治学や社会、地理学などの学問にその名前を使って欲しくない。と言われた事がある。つまりは、「カントは私の旦那であって、他の女と仲良くさせるわけねーだろバカタレ共が」というわけである。生涯独身だったカントが聞いたら苦笑するかもしれないが。カントが何故に哲学の「物」なのか。こういった利権、権威こそが彼らの学問を死に至らしめている事を理解できていないのが残念だ。我が母校では発展的な意見も多いようだが、学閥界の陸の孤島たる「法政大学」の理解が果たして国内の理解なのかどうかは疑問が残る。
キルケゴール(哲学者はキェルケゴールとか書くけど、お前読めるの?)に代表される「不条理」の研究。不条理とは、人文地理学の対象範囲である「世界」と「人」との関わりを幾ら研究したところで、そこに意味など無いという考え方。語弊があるので解説すれば、人が生きる意味を世界に求める事は少なくとも人に於いては無駄な事だ。ということです。
つまり、一般に哲学と考えられている「人とは何ぞや?」は、とうの昔に死滅させられた考え方であり、本来はこれを否定しつつも人の行動、行為の根幹を探るものが哲学、最近勃興してきた人間行動学(人間学はカントの時代からあった)であると。ここまで哲学者としてきた人間は、哲学を知ったフリをしている学部生や院生を含んだ哲学に寄与する全ての人間である事をここで明記したい。既に破棄された考え、無駄なものにしがみついている連中は哲学を、カントを理解していないのであって、哲学に対する表層的理解で物事を述べるから「哲学=気の狂ったバカがやるもの」等と切り捨てられる。彼らが口を開くたびに哲学の価値を貶めていると言っても良いだろう。
人の生きる意味が無いのであれば、世界と人はどう関わっているのか。
人はどうして生き、どうして働くのか。これをつきつめて行くと、人間と世界、つまりは社会との関わりを見ていかねばならなくなり、どうあがいても突端には社会学や人文地理学が待ち構えている。哲学は哲学であって、完全に独立した孤高の学問だという彼らのプライドが哲学の誤解を増幅させているのであれば、それは酷い不幸である。学問に障壁など必要か?一学者一学問、それは偏った考え、俺ルール専用の学問にならないか。哲学者がよく言う、「哲学の世界ではこうです」は、哲学以外の世界では価値を失ってしまうが、そのままで本当に良いのか。
人文地理学は、歴史、社会、経済、政治、文化といった様々な学問分野の理解が不可欠で、そこで何故人間がそういった生活をしているのか?を知るためにはあらゆる学問の手法を取り入れなければならない。そういった何色でもない学問から見ると、明確に色付けが為された学問の不自由さが目に付く。学問の優劣をつけたがる学者が多いようだが、学問分野に優劣をつけたがること自体が、学問の本懐を理解していない証左であって、己の無知を晒している事に他ならない。
一体全体、学問を通して何を求めているのか。カントを、キルケゴールを理解する事で、自分の権威を高め、知識人として威張り散らしたいのか?少なくとも私は学問に対してそういった理解はしていない。自分しか知らない事、誰もまだ着手していない事、そういった未知の分野を開拓し、人類の歴史という大山に耳垢ほどの「石」を積み上げる作業。それが学問だと信じている。
耳垢なので、誤りがあれば取り除かれるだろう。石なので、より美しく加工してくれる優れた人材が後々現れるかもしれない。それが学問であって、断じて己の価値を高める「キャリアアップ」的な物ではないと考える。地位や名声が欲しければ、さっさと学問から足を洗う事をお勧めしたい。
学問を前に人生を棒に振れる恵まれたキチ○イが学者であって、
普通の人間の為し得るものではない。頭が良かろうが悪かろうが大差は無い。
人生を棒に振れるかどうかが重要だ。棒に振れる人間は守勢に入ったりしない。
利権を求めたりしない。真理の前にはどこまでも従順になれる。
私は生涯、真理の奴隷で逝きたいものだ