最近とみに感じられるのが、新書の増加に伴い、競争率の激化、販売数勝負で雑多な内容、新書とはとても思えないような題名、「週刊誌」や「タブロイド紙」のような羊頭狗肉なタイトル付けである。PHPや光文社の新書に羊頭狗肉は多いように思う。これは、私が求めているものと大きく異なったという主観であって、世間的にはそのタイトルで良いのかもしれないのであるが。
新書を読む事がステータス化している。小難しい本、ハードブックは手に取りたくないが、本を読んでいることをアピールし、自身が優れた人間である事を世間に示したい。かつて忙しそうにミニノートPCを叩いたり、経済新聞を華麗に折りたたんで目を細めて読んだりするのがそうだったように、本を読む事は一種の自己表現、自己顕示欲の発露、お洒落になっている。
新書には決まってブックカバーをつけてもらえる。有燐堂や三省堂、書泉、文教堂…といったエリート臭漂う紙製のブックカバーを身にまとえば、
「スローセックス」だろうが「ヤリチン」だろうが「ジオン軍」だろうがなんだろうが…そういった文字が躍っていたとて周囲からは分からない。
この新書のステータス化が進行すると共に、新書を買う人間の裾野が広がった。
結果として、ペーパーバックで済むようなムック本が新書に進出し始めた。
裾野の方では、かつての岩波や中公のような内容では読みきれないからだ。
(ただし、かつての岩波、中公礼賛ではなく、読みにくさは間違いないと思う)
裾野の方に居る人間は、知識が欲しいというよりも、暇潰し、ステータスが欲しい。
何を買うという指針も大して持たず、知っているテーマに飛びつく。
知りたいテーマではなく、知っているテーマに。だ。
そうなると、パイの大きさ、食いつきの良さを重視するのは当然で、
「朝青!大阪場所乱入計画(?ととてつもなく小さいフォントで付いてる)」
のような題名で売り出されるのは自然の流れとなってくる。
これが「週刊誌化」のメカニズムだ。大衆化とも言えるが、大衆に知識がついてというよりも、新書が水準を下げたと言った方が的確だろう。
少しでも書籍に興味を持っておられた方々は、「何を今更」、「由々しき事だ」と思われていらっしゃるであろうと考えて居りますが、いかがでしょうか。私もその中の一人で、書籍に住み分けがあっても良いと考えています。この雑多な内容の新書を足がかりに、高度な内容の本を売りつける!という明確で中長期的な計画があるのであれば良いのですが、今とりあえず売る事だけを考えているのであれば、本の持っていた大切な何かを食い潰し、金に変えているだけに思えます。いつか尽きるぞと。
世間は週刊誌化した題名で買い、読み、満足しているのだろうか。
本が大好きな人間としては、多様な書籍の出版は喜ばしいが、何でもかんでも売れるようにとするのもどうかと。難解なテーマを噛み砕いて読み易く、価値ある書籍だから売れるのと、誰でも知ってるテーマでもって大きなパイから一網打尽とは違うと思いますしね。
羊頭狗肉な売り方で、ブームが過ぎたら誰も残らなくなってしまわないだろうか。