さて、本のカバーについて。以前、 「ケンイチの単行本はカバーの表裏と表紙にもイラストがあってサービス精神旺盛だよね」 と、語ったところ、失笑されてしまいました。 「カバーの表裏と表紙って。腹痛が痛いみたいなこと言うなよw」 と。
何がおかしいのか分かりますでしょうか。皆さんは、表紙=本をくるんでいる外装の表側だと思っているからこそこういう事が起こるわけです。
そもそもカバーとは。カバーは何をカバーしているんだろう?
と、思われたことはないでしょうか。
実はカバーは元々、汚損防止用なのであります。
すり傷やへこみ、その他の汚れから守り、美しい状態で読者に届ける。
これが今のカバーであり、歴史ある書店がブックカバーを提供する理由でもある。
かつての書店、図書館は、カバーを外して提供していたとも聞いています。
もちろん、これは今でも大活躍しておるわけでして。
カバーの事をジャケットと呼ぶように、現在は外装のカッコ良さなんかを競って差別化するようになりましたが、その本質は忘れられていません。
手元の本の奥付ないしその右隣のページをご覧下さい。
「価格はカバーに表示しております」
と書かれていませんか?
これは、輸送や店頭に並んだり、返本などで汚損した本を回収して改修する際に、カバーだけ取り替える事があるため。更に、価格変更や消費税の増加が近いという時にも対応できます。
余談ですが、「奥付の右隣のページ」は結構面白いテーマだったりします。
「ハァ?右隣?奥付の右にはもうページねーよ。バーカ!」
だった場合、バカなのは私ではなく、編集者です。
日本の書籍のページはどちらからどちらへ開かれるでしょう?
という大原則がありまして、これを考えられない編集者、出版社が今、相当数存在する。こういう所を見ると、本当にごくごくごく少数のスーパー編集者は、「こんなバカが本を作ってるんだもの。出版文化も死ぬってもんだ」と力なく嘆き悲しむということです。
つまり、本は左から右へページを開く。ということは、一番最初に目に入ってくるのは左側のページです。にもかかわらず、左側のページを大切にしないというのは、読者のことを考えられない編集者という事で、そんな編集者が担当した本が、読者にとって有益なはずが無い!ということなのです。
聞いた話ですが、やはりごーく稀に、超少数の編集者はこの点で人間性を判断するといいますから、疑われないように私も最大限注意する方向で…というのは良いとして、つまり、扉のページやら、題名やら見出しやらは、基本左ページにないといけないわけです。奥付も例外ではありません。
このルールをぶっちぎっているのがかの有名な集英社。
「賢い犬リリエンタール2巻」と「保健室の死神2巻」を見比べた時、スーパーエリート編集者は、死神の担当者は使えんな。と判断するというハナシ。
他に、「あねどきっ3巻」や「ワンピース51巻」、樋口一葉の小説文庫版「たけくらべ」あたりもぶっちぎってる。集英社新書の新刊は守ってるのに。
統制が取れてない。そんな事も伝え合ってないし、教育していない。下請けが適当かまして、チェックも適当だと露呈していると言える。(出せば売れるからどうでもいいんですかね。あそこまで大きくなると)
ちなみに、エロマンガは大概右に奥付だと思います。
アレは何でだね。そういう文化なの?そもそも考えてもみなかった!系?
個人的に、マンガの題名とかがマンガの途中で入る場合も、左側にタイトルが無いとイラつく。病気ですか。そうですか。編集者の煽り文を叩き込むのに、右ページに載ってたら、煽る効果薄くなるんじゃね?とか。気にし過ぎですけど。
もしマンガを描くとかいう場合でも、「左ページ起こし」をオススメしたいです。
さて、大概脱線しましたが、カバーは痛んだらとっかえます。で、その本をまた流通させたりするんですね。店頭に並んでいる本は、カバーを換えた本かも?なんて言ったら中古っぽくて買いたくなくなりますかね。
最後にもう一つ。言えればカッコいい専門用語を。
店頭に赴いて平台の上に乗っている本を手に取る。すると、立ち読みされて相当ボロボロなものってありますよね。そういう本を見て一言。
「しょたれ本か。かわいそうに」
上から3冊目とかの本を買おうとしたり、複数冊手にとって一番の美品を買おうとするヤツに対して一言。
「お前のその行為がしょたれ本を生むんだよバカタレ」
しょたれとは、田舎の方ではよく聞かれる、だらしのないこと。
転じてしょたれ本は、汚損、店晒しなどで返品不能になった本のこと。
どうせズタボロになるんなら…と、一冊目を見本誌にするエロマンガ屋の戦略は、しょたれの被害を最小限に抑える良い戦略であったりします。ただし、「カバー」にダマされて買って行く客も減っちゃいます。