ゲーム機の進歩には目をみはるものがある。しかし、いかに進歩しても、ユーザーの数は地球人口以上にはならない。ゲーム機の性能が倍になっても、売上が倍になったり、ユーザーが倍になることはもはやないのではないか。
次世代機、次世代機と性能を追い求めることが悪いことではないとは思う。1.4MBのフロッピーに一生懸命圧縮をかけたデータを入れていた時代から、TBなどという規模のデータを持ち出せる時代になった。メモリ、CPU、液晶にいたるまで、あらゆるものが倍々ゲームで進化を遂げてきた。それはいいことだ。しかも、何万倍という性能になっても、価格は何万倍どころか安くなっている。
で、この機械的な進歩に歩調を合わせてゲーム機も進化しなければならないのか。ということなんですよ。進化してくれた方がありがたい。ありがたいけれども、それがゲームのおもしろさとイコールになるかといえば、そうでもないわけでして。
ゲーム機の性能が倍になれば、ユーザーや利益が倍になればいいけれど、倍になるのは開発費だけ。ソフトの代金はファミコンの5000円時代からスーファミ時代に10000円(オーバー)時代になってそれっきり。現世代機は10000円弱だけれど、PS時代にはむしろ下がった。
携帯(電話)ゲームの隆盛を見ればわかるように、もうユーザーはゲーム性(おもしろさ)と機械的な進歩に相関はないことを知っている。なのに、ゲームメーカーは絵的な進歩をやめようとしない。そこにゲームの未来はあるのか、と。
ゲームメーカーが追い求めているのは砂上の楼閣、バベルの塔。敗北が約束された、完成することのない蜃気楼なのではないかと思うわけです。家庭用ゲーム市場がPCゲーム市場のような先鋭化を遂げ、衰退する姿はできれば見たくないんですがね。