今のジャンプに足らないのはぬ~べ~だと思う。今の時代ぬ~べ~なんてやったらPTAのアグ○スだかマグネループだか言う人の「海胆セフ」とかなんとか言う仕分け対象外の団体におこられるんだろうな。
さて、ぬ~べ~を何漫画と分類するかは物議を醸すところだろう。
「妖怪マンガ」だろう?と吐き捨てるのは勿体無い。ぬ~べ~を読んだ事がある程度の知識で終始してしまっている。もちろん、それは構わない。私も当時は深く考えて読んでいなかった。ただ、今改めて読むと、極めて多様な手法で読者に迫ってくる作品であったのだなと感心させられる。
一つは、高学歴マンガ家&原作者特有の重厚な空気だろう。
あまり意識して読む人間も居ないだろうが、職業マンガ家(絵を描く専門職)ではなく、書きたいストーリーがあって、そこに絵を載せる。そういった事が可能な優れた作家の生み出す作品は、知らず知らずのうちに人間を引き込む。絵を描く事が上手いだけの作家は、どうすればそういった要素を得られるか、自分の作品がどの程度そういった力を持っているのか把握できていないきらいがあるが、高学歴な有名作家の多くは経験的にどうやら理解出来ているようだ。つまりは才能か。
人生訓や雑学、社会派な内容をそっと忍ばせることで、ストーリーに重みを加えるというのも、そういった作家ならではだろう。才能の無い人間がやろうとすれば、やたらとハナにつくマンガになってしまったり、勘違いした高学歴作家が「社会問題の指摘」を「マンガ」というオブラート&逃げ口上でやらかしたりするが、そういうものではない「さりげなさ」が読んでいて妙に記憶に残る要素なのかもしれない。
などとハッタリをカマしておいて、本当の理由を述べたいと思う。もちろん人生訓もあるだろう。真っ当な(一般的なではない)教師が生徒の為に精一杯努力する。主人公は生徒に比べれば圧倒的に強い存在で、子供のイタズラ、浅はかさを許し、無償で守ろうとする姿は身近に居そうなヒーローとして受け入れ易い。生徒と教師という在り方を説いているのだ!と言われればそうかもしれない。
ただ、そんな簡単なものではない。純和風妖怪や学校の怪談といった類、鬼とのバトル、ギャグ、ラブコメ、お色気…と、一つところに留まらないのがぬ~べ~の魅力であり、読んでいて全く飽きが来ない。これだけ様々な要素を盛り込んでいるのに、そこには確たる「ぬ~べ~」が存在していて、全ての要素が見事に調和して「ぬ~べ~」を構成している。
こういった人生訓であり、身近なスーパーヒーローなマンガが最近少ないのではないか?
というのが私の感想。二匹目のドジョウなどと言っては失礼だが、
「保健室の死神」などはそれに通じるものを感じる。
最も、今のジャンプに限らず「マンガ」の世界で、あれほどパワーが溢れる作品は珍しい。珍しいなどと予防線を張って言葉を選ぶのをやめるならば、無い。
95年前後は最もマンガがアツかった時期と私は捉えており、あの頃の作品は、
どれも紙面から「気迫」が伝わってきていた。読んでいるだけで、書き手のテンション、気合が伝わるような躍動感のあるマンガが多かった。簡単に言えば、私の感覚でいう「マンガらしさ」がそこにはあった。
マンガだからこその暴走や、「ぬ~べ~」の性への寛容さ、妖怪達やグロテスクな表現への寛容さがあった。そういったエログロナンセンスなどと昔は呼ばれていたような物を廃した結果が今のマンガであって、いつの間にかそこには「気迫」が感じられなくなっていた。
それもそのはずで、用意された素材を、決まった形式に合うように描かれたマンガが良いとされてしまったのがいけない。クリーンなマンガばかりが並び、上辺だけのヒーローやSF、エロが溢れた。気迫、気概が消滅するのも当たり前だ。
「とんこつラーメン背油乗せ」や、「カルビ」、「大トロ」が体に良く無い事くらい重々承知している。
だからといって、精進料理ばかりを食べるか?(精進料理は結構油を使うが)
精進料理や生野菜ばかりを食べて、明日への活力に結びつくか?
カレーライスやトンカツのような、心がはずむ食べ物というものが必要ではないか。
たとえそれがあまり体に良くない、非合理的な存在だったとしても。
飼い慣らされた作家に、それに慣らされた読者。それが形成する文化。
そんな無菌状態で何が面白い。下流文化として果敢に挑む姿が我々を歓喜させていたのではなかったか。これでは骨抜きではないか。
形式、体裁を守れば誰でもマンガ家!みたいな状態になってしまった事が、
ぬ~べ~のような作品を減らしてきたのだとすれば、残念で仕方ない。
当時のマンガの気迫をもう一度、マンガ界の雄、ジャンプに思い出していただきたい。
(リスクマネジメントでスーパージャンプで色々やってるのは分かってますけど…本誌で…ねぇ?)