アキバ系雑談

社会通念と人文地理学の諸問題について

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じお☆ぐら横小私がよく苦渋を味わった「山村の過疎化を止める」「商店街の街興し」「自然の景観を守れ」これら3つは最も端的にこの問題を表している。山村問題は、山村を守ることが善。商店街は商店街を守ることが善。自然景観云々は当然自然保護が善となる。


そこから次の議論へと移ろうとすること自体が悪であり、許されないと彼らは決めつける。
議論の余地無しと考え、善行を積んでいると思い込んで論文を書く。
当然、社会通念が味方しているから彼らは人気も金もついてくる。

しかしそれは本当だろうか。過疎の村をなんとかして過疎で無くしよう。とする事は正しいか?
それは本当に可能だろうか。
過疎問題の解決法は唯一、その地域一体に人が居なくなることではないか。
田畑、家屋敷も持たない若い世代、仕事が無い、生活必需品が無い、子供を育てにくい。
そういった諸要素から村を捨てて行く若者を咎め、伝統的な村の生き方を善とし、それを受け継がない世代を悪の権化とする。典型的な年寄りのエゴである。幸い私の母校はこの価値観に異論を唱えることに賛同してくれる教授も多く居た(というか自分でそういう論調も良しとする唯一の大学を私が探して選んだのだが)。

商店街問題は、ショッピングモールなどとのぶつかり合いから始まり、シャッター街の問題を取り上げ、ショッピングモールを悪とする。確かに商店街の人間からすれば悪だろうが、高くて品揃えも悪く、顔見知りしか使えないような店舗が軒を連ねているのと、駐車場もあり、複合施設もあり、一度であらゆる物が安く買えるショッピングモール。どちらが悪だろうか。利用者からすればショッピングモールこそ善ではないか?不便なままで居ろというのは進化への逆行であることは間違いないのだから、古いものを何でもかんでも守ろうというのは間違いだ。と私は思っており、その考えに聞く耳を持てる人間は極めて少ない。

自然保護問題は、例えば古きよき時代の日本の原風景を守れ!などである。
一面の田んぼと小さな用水、そこで遊んだ思い出を守れ。護岸工事や親水公園化は悪だ!とやる。
しかし、そもそも田んぼも用水も人間による環境破壊の賜物であって、どこでそれを切り出すかでしかない。本当の原風景は野原と山林ではないか。それを守れとは先ず言わない。自分の思い出などと言う極めて個人的な意見で、利便性や安全性に対しては一切考慮しない論文や書籍を私は幾つも見てきた。

親水公園が出来ることで、そこで遊んだ子供達は、小川でフナやタナゴを釣って遊んだ子供と同様に、思い出として胸に焼付け、日本の原風景と感じるのではないか?ということ。私的な妄想で彩られる、社会通念などという曖昧な刀剣で社会を切ろうとする連中が多過ぎる。科学はそんなナマクラ刀ではありえない。

「住民の意思」などという言葉も、たった5文字であるにもかかわらず、意味不明瞭な部分がある。先ず「住民」とは誰か。どこまでが「住民」と呼ばれるべきものか。考えられているだろうか。その「意思」とはどのようなものか、どれだけの人間が支持しているのか。などである。

社会通念に反する意見を検討すること自体が「悪」であり、正義は我にありなどと思っている人間が多過ぎる。科学の場を、政治や宗教闘争の場としようとする連中が居る。科学の場に、自身のポリシーなどは無関係。ここに気付けない人間が大層な肩書きを抱えて跋扈しているから始末におえない。

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