オタクであることはステータスではない。
一昔前に流行った、貧乳云々がステータスであるのとはわけが違う。
顔の半分もあるような目、驚くほど小さいにもかかわらず、誰も指摘しない鼻、
くちびるがないどころか、途中で線が途切れる始末の口。
それらを無視して、デッサンがどうの、構図がどうのという。
オタクは自慢すべきものではない。所詮、趣味なのだ。
偉ぶるほどのものではない。オタクとは、ステータス異常だ。混乱状態なのだと思う。
オタクであることが一等、蔑まれた時期がある。
その時期に私は、オタクとは趣味であって人間性を固定的に示すものではないと
述べてきた。時代が、オタクは犯罪者であるという論調を強めていたからだ。
一方で、オタクが選民意識を持つことを危険だと指摘もしてきた。
それほど影響力があるわけでもないので、便所の落書き程度ではあるが。
オタクとは、元々はクリエイターないし、クリエイティブな人間だった。
それが、ジャンルが細分化され、商売の対象となるにつれ、消費者集団となった。
現在は、ただ口を開けて上を向いているだけの養殖場状態であるのだが、
養殖場で生まれ、育てば、そのことに疑問は持たないだろうから、
こういった指摘は敵意、悪意、老害といった単語で打ち捨てられてしまう。
それは仕方ないこと。それはもう、構わない。
ただ、かつてはオタクは趣味でしかない。人間性に対するレッテル貼りをするなと
一般社会に向けて叫んでいたのだが、今度はオタク社会に向けて、趣味でしかないのに、
選民意識を持ったり、人生を破綻させるようなマネをするなといわなければならない現況が
あるということは忘れないでおいて欲しい。
自己の都合に合わせてオタクとオタクでない自分を使い分けることが主流なのかもしれないが、
そんなことをするくらいなら、オタク趣味などやめて、全力で勉強をするなりしてはどうか。
仕事に打ち込んではどうか。創作活動に勤しんではどうか。と思う。
暇つぶしのために何かをするということは、人生で最も無駄なことではなかろうか。
そもそも、人生に暇などないはずである。休暇と暇は違う。
人生を空虚に過ごせるほど、人間できていない。
空虚に過ごした分は、必ず差となって現れる。
オタク趣味を通して、人と繋がり、足並みを揃え、抜け駆けを許さず、
ともに人生のゴールを迎えたいだけではないのか。
昼間や未明のネットなどには、そういった倦怠感がつきまとう。
こいつらもクズだから、俺もこのままでいいのだと。
彼らは前進することを拒否するための理由としてオタクをやっているのではないか。
それは本当にオタクなのか。ただのダメ人間ではないのか。
最近、とみに思えてならない。