言葉は生きて死ぬからこそ美しいとかなんとかで
擬古猫っつってももうわからんだろう。
擬古ってのは古いものっぽいってこと。擬古文っていうのがあって、昔の人が書いていた文章を参考に美しく飾った文章を書くのが「偉い」って本気で信じて、そうしない奴を無学無能のゴミだっていってた時代が、江戸末期から明治中期くらいまであったわけです。
で、この擬古文、明治中期からは美文素と呼ばれはじめるんですな。美しい文章の原点とでもいいたいんですかね。このころ言文一致運動が一般化して、書き言葉と話し言葉が統一されていったので、美文素なんて呼称も一瞬で消えました。擬古文、美文素を知らん奴はゴミ!言文一致運動で口語文で小説書く奴は拝金主義!死んでしまえ!!って唸りをあげていた先生方は、漢詩的ななにか(中国語じゃ話さないんだから、結局ゲテモンです)を書いていたために、現代人には読めなくなっちった。
それどころか、古い言葉は素晴らしい!といっていた先生方は、江戸時代には擬古文とも美文素とも呼ばずに「雅文」っていっていたはずなのに、擬古文って書いちゃってたりするわけです。なんやねんお前ら。ふざけんなよボケってなもんですな。
なにがいいたいかというと、時代、時代に言葉は変わるし、擬古文も美文素も時代のスラングでしかないんだから、古い言葉を使える俺様は偉いだとか、古い言葉を使う奴はダサいだとかいうのはバカバカしいやな、ってこと。そんなことで言い争ってる奴、逝ってよし!ってことですわ。
言葉は変わるからこそおもしろい。その時代を映す鏡だ。
鑑じゃなく、鏡。
雅文も擬古文も美文素も、ギコ猫と一緒なんだな。
いまの言葉を楽しもう。
でもまあ、行き過ぎない程度にね。
(´ー`) だったのに、いつからか (,,゚Д゚) になったよね。
いまの子にはどうでもいい話だったね。
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