災害時に平常運転なんて信じられない!について
良心を持たないのはどちらだろうか
世の中が大変なのに、お気楽にブログなんか書いてんじゃねえぞ!って怒られた人がいます。東北の大震災の復興支援をずっと続けていた人です。大阪の台風で停電し、やっと電気がきた。きっと今回の災害についてお悔やみを述べているに違いない……。北海道の震災で………。
そういう思い込みから、そのメディアやブロガーたちが特になにも触れずに坦々とサイトを更新していることに怒り狂ってしまったのでしょう。「ブログなんかやってんじゃねえ」「そんな人だとは思いませんでした」そんなコメント、メールで溢れて、心が潰れてしまいそうだと彼らはいいます。
そのうちのひとりであるAくん。彼は私のずっとあとからブログをはじめ、私の100倍近いPVを出しています。お金儲けのためにサイトをやっているわけではないので、100倍だといわれてもうれしくもないのかもしれませんが、被災地の現状を憂い、ブログの収益で(ときどき吉祥寺や下北沢で舐めるような酒の飲み方をする以外は)震災の復興の支援をしていた子です。
彼の心を、彼の事情もよく知らないままに潰してしまう。
ネットの即時性、速さと直接という2つの利便が、彼の喉元に突き刺さったわけです。
お金は汚いと思われている方からすれば聞きたくない話でしょうけれども、彼はネットで稼ぐ力があります。嫉妬するほどに、ある。そんな彼が今回の一件で矜持を改め、「金になればどうでもいい」に切り替わってしまったら。社会の損失は決定的です。経済的損失もあるでしょう。でも、彼の懐という経済は潤いますから、その辺は考慮したって仕方がない。復興支援に出向くとか、雑事をこなす時間がなくなるぶん、ますます富むかもしれません。そう仕向けることが本当にいいことなのか、という話です。金も稼ぐな、被災地支援は自分の財産を使ってタダでやれ、俺の気の済むような記事を書け、ということなのかもしれませんが、これは本当に正義なのか。彼は社会の奴隷ではないし、自発的にはじめたことに社会的責任を負わせるのは社会の方が無責任ではないのか。ブログの内容に至っては、世間に発信したいことがあれば、お前が書けとしかいいようがありません。
これが正義の面をして、堂々と正門から入ってくる。一方、応援してくれる人はメールのひとつもよこさない。よこしてくれないから、私なんかに泣きついてきたんです。キミの100分の1男なのに。味方がいないと感じたわけです。よほど堪えたに違いありません。批判された方々は、本当にこれでよかったのか、批判したらどうなるか考えてからメールやコメントしたのかと、つくづく思います。
社会の毒、寒風に晒されて「いい人」は消えていく
「大変なときにブログなんか書いてんじゃねえ」にも「そんな人だとは思わなかった」にも、私だったら「こんな非常時にブログなんざ読みにくんなよバカが。被災程度が軽いなら、ネットで暇つぶしてないで復興支援しろやドアホ!!」というところです。
そんなだから私は彼のように周囲を笑顔にしたり、成功しないんですけど、そんな彼だからこそ、今回の一件は本当に心を痛めているんです。
こういった言説、批判は、遅効性の毒です。彼の才能をゆっくり殺します。
おもしろがったり、やらなきゃいけないという自発性から生まれるコンテンツはおもしろく、仕事でやるコンテンツはおもしろくないということに、みなさんはお気づきでしょうか。おもしろおかしいビジネス文書はありません。イカレポンチな企業ブログもほぼ、ない。仕事として組織に属し、そこの規律や社会的な規範、ブランド維持といったしがらみが増えると、独創性を発揮する余地がないからです。そんなことをすると、「ふざけているのか」「ばかにするな」と上司や客から怒られる。だから、判で押したような業務報告的ブログ、味気も何もないビジネス文書、「了解」とだけ返信できない長文のメールなんかが飛び交うわけです。
彼の中に打ち込まれた毒は、ゆっくりこうした牙のない社会の仕組みに取り込むように効いていきます。「そんな人とは思わなかった」といった人は、二度とサイトにこないかもしれない。でも、彼は今日も、明日も、そんな批判に晒されることを恐れて、手足を徐々に引っ込めていくことになる、かもしれない。
そんなのは、根性がなかったのだ、才能がなかったのだというのは簡単です。でも、そうじゃない。私のように殺害予告を受けても「うるせえバカ」といえるのはごく一部で、そのなかのごくごく一部が、批判を一切受け付けず爆進できる力を持っているのです。
そして、そんな人物が会社の社長になったりして、横暴、専横を働くわけです。良心のあるものを殺し、(比較的)ないものを選抜しているのは、社会なんですよ。有り体にいえば、世間が独裁者を望んでるわけです。
私にはそういった毒を放つ連中を御する知見も、心を守る方法も持ち合わせていませんが、これだけはいえるということがあります。
「いい作物は、いい土から」
大きく育った巨木なら、足元でなにをいわれてもいままでどおりに生きていけるでしょう。でも、いま出たばかりの目や若木なら、そういうわけにはいきません。いい環境なくして、いい植物は育たない。人も同じです。温室育ちとバカにするかもしれませんが、温室で「いい人」を育てておかないと、社会が真っ先に選抜し、殺してしまうんです。米の苗だって温室で育てます。そうしないと、いい苗がまとまった数つくれないからです。いい人をまとまった数つくるには、温室でもなんでも使わないといけない。
甘ったれているとか、俺たちの時代はとかあるでしょう。そういった経験的価値観に基づいた攻撃は、さぞきもちがよかろうと思います。正しかろうと、なかろうと、とてもスカッとするものです。でも、どちらが得か考えてみてください。酷い奴が勝ち残る世界が正しければ、あなたの隣にいる奴も酷い奴になります。となれば、あなたはきっと損をします。それでいいのか、ということなんです。
まあ、軽い感じで他人に「失望」を口にできる時点で、かなり酷い奴なので、そんな人の隣に酷い奴が増えても自業自得としかいいようがありませんがね。
でも、我々としてはノーサンキューでしょう。そのためには、良心あるものを言葉の暴力や毒から守らなければならないんです。非常時に非常事態を叫ぶブログもいいし、被害がなければ平常運転のブログだっていいんです。心にゆとりがない人が増えたのか、考える力がない人が増えたのか、それともそんな人たちにネットが行き渡ってしまっただけか。
世界は今日もどこかで人がたくさん死んでいます。非常じゃないことなんてないでしょう。どこまで謹慎すれば不謹慎じゃなくなるのか。ビジネスの世界がおもしろくないのも、今回のブロガー攻撃も、根っこのところは同じなんだと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
誰にとっても不謹慎じゃなくなる決定版のガイドラインがあるなら、ぜひお持ちください。そちらをいただければ、私も「うるせーバカ!」とは申しませんので。
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