新潮45の水脈論文を受けて本屋の対応
「新潮社の本は置かない」は正義か
新潮社の本を置かないと宣言した和歌山の書店を新聞社等が賞賛しているのをみて、心の底から驚きました。ギョッとしたというけれど、まさにギョッというのがぴったりでそれ以外にないくらいに。どうしてそこまで驚いたかというと、特定の集団を封殺するかのような論文を書いた人間に批判が集まっているのに、それを受けて「この会社の本は置かない」と宣言したんですよ?
やってること、ほとんど同じじゃないですか。これを賞賛しているということは、全然事の本質を理解していなくって、褒め称える人も、新聞社も、書店も、結局は同じ穴のムジナなわけです。立場が違えば、きっと同じように論文を書く。そんな人だってことです。いまさら違うと取り繕ってももう遅くて、全員化けの皮が剥がれたんです。
いち私企業としては正しい判断
商店としては、気に入らない版元の本を置かないのは正しいことです。ビジネスにそんな義理はありません。でも、書店としては、どうなのか。もちろん、さじ加減はあるでしょう。書店員の好みで売り場は作られますから、多少なりとも偏りは出る。政治思想がどうこうではなくても。しかしながら、明確に宣言してしまうと、今後はもう社会の公器ヅラはできませんよね? ってことです。文化の発信地でもなんでもなくなって、思想の流布のためのフロント企業ってことになります。もしくは、お金のためだけにやってる問屋業です。いままでのように偉そうなことはいえませんし、今後Amazonなどのネット書店が台頭してきたときに、地域文化のために救ってくださいとはいえなくなります。もう、おしまいです。後先考えることなくやってしまった。それも、今回の一件に触れたすべての参加者が。終わりのはじまりでしょうね。地獄の釜の蓋が開いたというか、底が抜けたというか。
「こんなことをやったら、新潮45の連中と同じじゃないか。絶対にダメだ!」といえる人間がいないんです。そこまで世間の物言う連中のレベルが堕ちてるってことです。新潮にノーを突きつける人物や組織を見つけては「ひゃあひゃあ」いって応援してたでしょう? もしくは「新潮の論文の何が悪いんだ!」って怒ったりとか。
ものを考える力がなくなったんです。人間の能力が下がったとか、最近の若者は〜とかいう話じゃなくって、即物的になって、デジタルになって、なんでもかんでも速くなった。だから、わかりやすくて速いことをいえる人間ばかりが文壇だの政治だの、色々な場所でもてはやされるようになってしまった。そうした市場原理が、熟慮する人間を世間から駆逐させつつあるんです。いるにはいるんですよ。じっくり考えられる人も。でも、もうお呼びがかからないんです。コンテンツとしておもしろくないから。で、行き着いた先が新潮45の論文であり、そこから新潮をやっつけろといって極端な行動をとる人というコンテンツなんです。
少なくとも、本に携わる人間、物を書く人間、人に語る人間は、新潮45の内容はもちろんのこと、それを置かないと宣言した人間たちに加担し、正義だなどといってはいけないんです。その先にあるのは、互いの論調を潰しあう、出版文化、言論文化の荒廃だけです。互いになにもいえなくなり、すべての書籍が書店から消える未来を見たいのか、という話です。
新潮45も書店の対応も私は絶対に支持しない
「気に入らないものを消す」
この論理で動けば、行き着くところは戦争、殺戮です。
それを一番望んではいけないはずでしょう?
あなたが本を読む「高尚な知的エリート層」とやらであるならば。
私は立派なエリート様でもなんでもありませんが、20年近くネットや本に物を書いてきた人間の責任として、いずれの対応も絶対に支持しません。そんなものは正義や理性の化けの皮を被った詐欺師のやることです。
今回の一件を他山の石として、この忙しない時代に生きるすべての人に、本当にいいこととはなにか、事の本質とはなにかを考えて欲しいと切に願います。
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