世間は最近の若者は~と言う。これはもう通過儀礼のようなものだが、そういった口癖、習慣全体を捕まえて世代論として論じ、反撃するのは容易い。団塊だってそうだったじゃないか!と、概念やら何やらでえらそうぶるのはそろそろお終いにしたいというのが本音。 そこで、本当に若者が劣化したかを追及する必要があるが、どれもこれも、詳細な数値や足を使って話を聞くという事をしない。
本当に若者、特に大学生が劣化しただろうか。大学進学率が大幅に上昇した為、簡単に比較は出来ないが、こいつら…もう本当にダメだなぁ。と思っていた人間が、卒業論文等の研究発表で非常に面白い研究をする場合がある。
簡単なレポートでも良く調べ、今までの学生のやってきていた、図書館の同じ本を読んで、同じ感想文を書いてくるのとは違う、質、発想力共に一定程度のレポートが出てくることがある。と、とある研究者の発言。
そんな物は10に1つ程度だそうだが、それでも今までに無い斬新な発想、メディアミックス的な学問の融合(こじつけ)は、金太郎飴研究に辟易していた非封建的、非閉鎖的な研究者達には新しく映ったのではないか。
ネットで情報を簡単に探すことが出来る。書籍の購入も足を棒にしたり、書店で売り切れていてたまたま出会えなかった…などもない。簡単なキーワードをディスプレイに映し出す事で、様々な関連書籍が並び、今までに無いほど、飛躍的に自分の求める情報と出会いやすくなった。
これは学問的な労力が半減どころか5分の1、10分の1ともなる可能性を秘めており、1週間ほどかけて丁寧に作られたレポートがかつての1ヶ月かけたそれに匹敵することもあるかもしれない。
勉強には使えないが(学問的基礎知識含む)、学問には良い時代となった。
学問をする人間という視点からすれば、今の大学生はかつての大学生と遜色ないのではないかと考える。また、一部の有名な大学の厳しい学部等に入っている人間でのみ語れば、かつての大学生を凌駕するほどではなかろうかとも。
私の学んだ地理学では、今でもそうだが地図会社に行っても手に入らないような詳細な地図は、自分で調べて描かざるをえない。それを手書きとするか、PCを駆使するかでも作業量や完成度の高さは変わってくる。様々な分析を手計算から機械へ丸投げするだけでも圧倒的に時間は節約できる。
これに異を唱える人間も多いが、そういう学者の多くはまともな研究をしていない。日々研究を続け、数字と戦い、図面とにらみ合い、脳味噌に滝の汗をかきながら発想を搾り出す人間は、イチイチ手計算などやっていられない。忙しくないからこそ、アカデミズムや懐古主義的なものにロマンを覚えられるのだ。私の大学では、徹底的にパソコンの活用法を叩き込まれる。情報に対するリテラシーに始まり、地形の分析、地図描画まで様々だ。機械に頼るなと言うのであれば、あらゆる科学分野に対しても言ってもらえないだろうか。理学系の諸分野で、機械を使うなと言ったらば、大笑いされるに違いない。
今の若者は時代に恵まれている。だから当時の若者と同じように比較するのは卑怯だ。という意見もあろうが、「昔の方が優れていた」と、同じ土俵で語り始めたのはどちらだったか。十数年前と異なり、今の若者の仕送り額は26年前の水準だ。これが何を意味するか?学生は昔のように遊び呆けていられない。かつての大学生は金持ちのボンボン。これ以外に無いだろう。かつての若者に有利なデータを持ってくるなら、こういった現代の若者が優位に働きそうなデータで対抗するがよろしいか。
金も無い。大して酒も飲まないし、お立ち台に登って扇子を振るわけでもない。
学問にかける労力と時間は一気に減った。
彼らは彼らなりにかなり頑張っている。どうしようもないオトボケ学生は当然居るが、学問的な視点、発想力は発達してきているのかもしれない。大学のカリキュラムの充実や、教育者として研究者がスキルを磨いてきた事もあるだろう。
「若者はバカになった~」に対する反論は、一足飛びに細々としたものを打ち捨てて「世代」で反論するのではなく、こういった地道な研究から進めてみてはどうかと思う。試しに自身の大学の20年前の卒業論文と、今の学生の卒業論文を比較してみるというのもいいかもしれない。
(結局主観が入ってしまうのだろうが…)