昔は物を書くのがあんなに楽しかったのに、
最近はそうでもない。惰性で何か書いている、書かないと落ち着かない。
習慣としてアウトプットが身に付いたといえば聞こえが良いが、
その質については疑問だし、何を書いたか覚えていない。
昨日、編集業務の第一線で活躍する方、経営者の方とお会いする機会があった。
そこで、編集とはなぜ激務か?と問うてみました。
その中で得られた答えは、「編集業は期日と品質との戦い。品質追求に上限は無い。しかし期日は確実にある。そこでいつまでも終わらない無間地獄を味わう」というもの。
きっと、その過程で文章への思いや制作への思いが磨り減っていき、無難でありきたりで中品質な書籍が溢れかえるんだろう。無限の時間とバイタリティを注いでいた自分と、仕事でやってる連中とを同列に考えて、あの企業の出版物は~などと言うのは控えたいと思った。彼らは専門家でもないのに懸命の取材で月に1~2冊の雑誌を丸ごと請け負ってる。無理ですよ。高品位な書籍を乱発するなんて。
まあ、どの出版社も社員数を3倍くらいにして、給料据え置き、分野毎の専門編集集団を組織、執筆時間も3倍に。最後に、読者が今の5倍本を買えば高品質な書籍、言論が飛び交う可能性はあるのですが、まあ、買わないですからね。
結局ゲーム業界と同じですね。品質と期日。本当に面白い、価値のある物を作ったとしても売れない。人の弱みや不安を煽る本、提灯記事、売らん哉な出版物の横行は、全く同じ仕組みの上に成り立っているということ。
責任の一端は消費者にもある。全てとは言わないまでも、かなりの部分はあると思う。よく分からない小説や、賞を取った書籍以外、涙があふれ出すほどの売上げ数。担当編集者に「○○を読ませていただきましたよ」などと言えば、「何でそんな本知ってんの?気持ち悪ッ!」とかいう反応を示すような状態。1000部、2000部といったところか。
確かに多い。出過ぎだ。だからと言って、有名な本だけ読んでいて何が分かるのかと。ネット上の情報も、ゲームも、書籍も、何もかも結局はブランド、権威に落ち着こうとしている。
そういった時代の流れも、自身から物書きへの強い憧れを日々奪っているように思えてならない。また、先人への無責任な批判、非難を許して欲しい。嬉々として物を書き続けられるのは、余程偏った人間か、頭の悪い連中。良識があると磨耗して死んでしまうんだろう。すまんこってす。
(だからと言って妙な本を売って良いということにはならないのですが)