「もう要らないけれど、捨てるのはもったいないし、しのびない」という感覚はかなりの数の人が持っていると思う。それと同時に「大切にしてくれる人に譲りたい」という感覚も。ガレージキットのような作品でも、コレクションのような収集物でも、本人にとってそれは単なる物ではないわけです。
売る側は単なる商品ではなく、我が子のような思いで提供しているんだってこと。転売に違和感がある、悔しいというのは、そういうところなんだと思う。自分の分身、我が子をかわいがってくれると信じて譲った相手が、それを横流しして金を儲けることしか考えていなかった。やはり、ものを作る人からすれば悔しいと思う。自分も悔しいし、同じようなことを農家の親戚や友人だって口にする。自分の作ったものを評価してくれたわけではなかったのか、心から欲しいと思ったわけではなかったのか、大切には思ってくれていなかったのか……。金を払えばなんでもありなのか、信じた方が悪いのかという話でね。
転売は神の手による価格調整でもなんでもなくて、最低の金の稼ぎ方だと思う。話は飛んでしまうけど、私は株もやらないし、投資信託もやらない。年中投資銀行からアレがどうのこうのと電話がかかってきますけどね。やらないものはやらない。だって、そこには富が生まれないから。お金を払う、その代わりに商品をもらう。自分の元からお金はいなくなるけれど、商品がやってくる。相手は商品がいなくなるけれど、お金がやってくる。富という視点で眺めれば、どちらも何も失わない。今度、相手がお金を差し出して、あなたに仕事を頼んだとする。あなたは仕事をしてお金をもらう。相手は仕事をしてもらってお金をわたす。やっぱりどちらも何も失わない。でも、あなたの元には商品とお金があり、相手の手元には仕事の成果がある。はじめはお金だけしかなかったのに。
これが正常な富を生み出す稼ぎ方です。転売は、転売してお金は増えても、富は増えません。誰かから本来受け取る権利のないお金を掠め取るだけ。それを業にするとなると、一切富を生み出さず、お金を市場から吸い上げるだけの装置になる。富が増えていないのに、時間だけが経過する。人類、経済の発展という視点から見れば、まったくの無駄、不要な要因なんですね。そのせいか、直接害がなくとも本能的に嫌われるんです。直接ないだけで、間接的な害がありますからね。
私も作る人間の端くれ。作ったものを転売目的で買われるのは、やはり憤りを覚えます。あなたはいかがですか?
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