最近のオタク批判です。オタクにも一般人にも嫌われるので、あんまりやりたくないのですが、放言が私の唯一の取柄ですのでご勘弁下さい。昔のキャラゲーは、単純で手抜きのようにも見えたけど、瞬発力はあって、盛り上がりの瞬間最大風速はちゃんと作ったゲーム以上だったり、目新しくなくても無難な出来に仕上がっていた。と思うのは私だけでしょうか?
キャラゲーはクソゲーでもいいなんて風潮を誰が許したのか。
といっても、最近は誰にでもお勧め出来る、国民的な作品というのが無くて、オタク向け作品だらけになった。
オタク向け作品というのは、ごくごく一部の人間が高く評価する作品
などという定義が為されているようですが、それは単なる逃げでしかないと私は思っています。
「一部の人間が評価する」と言えば聞こえはいいようですが、換言すればそれは、
・殆どの人間は評価しないつまらない作品
・評価してくれない人間には売っていないという逃げ道確保
というもの。国民的作品というのは、そもそもマンガをバカにしている一般人さえも面白さを理解でき、我々オタクも満足できるクオリティに仕上がっている事が前提になるわけです。
ここから話が膨らみますので、結論を先に書きますとですね、
私が言いたいのは最近のオタクの風潮は、「一般人ウケしていない物が良い」等という、
中二病的な斜に構えた感じがあってイケ好かん。と、こういうことです。
一般人が知らない作品の価値が高く、知っている作品は価値が低い。
そんな作品評価とは全く無関係な要素で作品を採点している人間が多過ぎる。
だから、キャラゲーはキャラゲーであるだけで許され、ローカル誌の人気作品がもてはやされる。
ネットやメディア(側の策略)でうねりが生まれたら、まるで自分達がクリエイティブな集団で、
新たな価値の発見、創出に努めたのだなどと選民意識を抱き始める。
常に受身である彼らが、なぜ能動的なクリエイターだと勘違いしているのかは私の知るところではありませんが、どうやらそういった「オタク」の方が多いようで、最近の体感としては、彼らは自分がクリエイティブではないという事実を指摘する人間を煙たがり、オタクとしての知識や技量に長けた人間を「キモオタ」などと呼んでコミュニティから切り出しているようです。
半端者の出来損ない軍団ですが、社会の縮図とも言えます。
世の中の94%は出来損ないだというロングテールの法則的な指摘もあります。
しかし、残りの6%が全体の94%の知識や技量、創作能力を持っていたところで、数の論理には勝ち得ません。オタクのスタンダードは94%が決めるのです。
社会のはみ出し者、落伍者、食い詰めモンが自然と集まってきたのが昔のオタク、6%時代でした。
しかし、今は事情が異なり、6%の特殊な人間でなくともオタク風に生きる事が出来るようになってしまった。
ドリキャスのファックスモデムでKDDIに恐怖しながらオンライン対戦したり、テレホマンを知らなかったりする時代です。
上記のような社会的、物理的障壁が無くなった今、一般社会と落伍者を隔てたし隔壁は決壊済み。
6%の人間は、またもや切り出されてしまう。有名作品を批判的に見る集団はオタクを名乗っていますが、私のような人間からすればそこはアンダーグラウンドではない。陽光がさんさんと降り注ぐ、ドッピーカンです(死語)。しかし、彼らに真のアングラを教えたところで、
「そんな作品は知らないから面白くないに決まっている」
「古い人間の戯言だ」
で片付けられてしまいます。我々はまた潜るしかないようです。
オタクを名乗っている94%は、世間から見れば少数派ですが、オタクから見れば多数派で、
商業的に見れば実にオイシイ集団です。ケータイ小説を流行らせるのと同じで、
そのステージに乗っている人間に適当に餌を撒いてやればいい。
今までのオタクにはそういう手法は難しかったが、同じ方向を向いた人間がこれだけ
集まれば、サビキを垂らしたも同じ。幾らでも引っかかる。
エサ(作品)品質なんてどうでもいい。コイが鉛のオモリと針だけで釣れるように、クロダイがスイートコーンやスイカの皮で釣れるように、そこには幾らでも口を開けて待ってるヤツが居る。食いつかない人間は相手にしてない。食うヤツだけ釣れればいい。そういう体質や風潮が、低品質な作品の粗製乱造に繋がっているとしたら、今のオタクの拡大路線はバブルとも言え、いつかははじけてしまうのかもしれません。はじけた暁には、不毛の残務処理が続くのでしょう。
「一般人も知っている有名作品は駄作」と、声高に叫んでいる彼らもまた、
企業側の用意した有名作品によって釣り上げられているんです。