ネット上での発言は低レベルだ、言いっ放しの無責任な発言だ。確かに玉石混合で、責任をとる人間が誰かも分かりません。しかし、若者がこのような場(ネット)で発言する事にも合理的な理由があるわけです。当然、発言の場が無いからに他なりません。
ご本人の許可を頂いておりませんので名前は伏せさせていただきますが、以前若者論についての書籍をお出しになられている方と対談する機会がございました。現在、20代前半で新進気鋭の論壇である氏は、私との対談でこのように述べられました。
「(今、若者の発言する場が少ない)だから、自分がその橋渡しをしたい」
この考えは、全く持ってその通りで、私は100%賛同いたします。
この会話の呼び水として、「オタク論を展開する公の場が圧倒的に不足している。自分がハブ空港のようになって、書籍なりを作りたい」こういう発言を私がしたわけでありますが、若者を取り巻く環境(老人による搾取の度合いがいささか強すぎる環境等)と、オタク(局地的な若者)論は方向性が同じで、状況も似ているものがあります。
1つに、発言の場を与えられていない事。若者を叩く事が部数を伸ばし、オタクを叩く事が視聴率を上げる。そういったカンフル剤として良い様に扱われているにもかかわらず、両者とも一向に反撃しない。むしろ、反撃の手段を持ちえない。一部に過激な活動を行おうとしている集団も居るようですが、私は反対です。論理で武装している人間を武力で一掃する事は簡単ですが、それは今度こちら側が論理武装をし始めた時に武力や組織力で押し返されかねません。
我々はいわゆるゲリラです。物量や組織力で戦ってはいけません。各個撃破が望ましい。言葉巧みに大将を引きずり出して1対1のタイマンを申し込まねばならない。量より質で押すのは、烏合の衆であったとしても、頭数があれば戦を優位に進められてしまう事を避けるため。
また、理論で武装している奴を完膚なきまで叩きのめすには、やはり理論で戦うしかない。同じ陸上選手だからといって、砲丸投げの選手と100メートル走をして勝ったところで、相手に「専門じゃないから」とか言われて逃げられるのは必定。同じ土俵で戦わなければ、相手の牙を折ることには繋がらないと考えます。
つまり何を言いたいかといいますと、勘のいい皆様の事ですからお分かりだと思いますが、我々もメディアを持たねばならないということです。メディアとは、テレビやネット一過性の要素を孕むではなく、最も古く、最も長く活用されうるメディアを用いるべきでしょう。それはやはり「紙媒体」です。論文や論評の威光を傘に着るにしても、ネットでこうだった、テレビでこうだったでは今の学会は認めてくれません。一定の体裁さえ整っていれば書籍として認められるわけですから、後学(後から追いかけてくるであろう支持者や学者)の為にも足跡として引用しやすく、また検索しやすい状況を作らなければ同じ議論を散発的に行うだけで一向に前進しないでしょう。
最初は同人という形式からの出発になると思います。しかし、何も始めないよりも遥かにマシです。
皆様も違和感を感じていると思います。時代と共に社会やそれにまつわる議論は移り変わるのに、何時まで経っても議論している面子は変わらない。今のオタクに関してあまりにも無知な人間が、未だにオタクの全てを理解しているかのような厚顔っぷりで雑誌や新書で発言を繰り返す。今や、その議論さえも移ろわなくなっています。全くもってこれはいけない。若者論も同じような状況です。
ネット上では、時々自分の思いつかないような見解や切り口から論じている方を見かけます。また、このサイトにもやはりそういう方は居られます。しかし、結局は「ネット弁慶」で終わらざるをえないと考えている方も少なくないはずです。自分から環境を変えてまで若者論、オタク論を押し出す体力は無い。そんな風に考えて、才能を持て余している人が多く存在しているような気がしてなりません。
そこで、実現するかどうか分かりませんが、提案をしてみたいと思います。
現段階では全くのノープランですが、若者論及びオタク論に特化した書籍が作りたい。
様々な論壇が様々な物議を醸す内容を書く。サブカル(趣味)本という側面を持たせつつ、主流は論壇たちの胸のうちを吐露する場として。参加してくれる人が居なくとも、マニファクチュアで作っていこうと思っていますが、やはり人の意志は弱い。そして、たった一人の妄想をダラダラと消費したがる人間なんてそうは居ない。
中身にもよると思いますが、「若者・オタクを取り巻く環境」を包括的に取り上げた書籍が出るとしたら、
貴方は手に取りたいと思いますか?また、そのような雑誌があるとすれば、投書してみたい、記事を作ってみたいと思いますでしょうか?