論客の入れ替え時が近いのではないか。そう思うと同時に、若い人間の発言する場が必要だろう。後者はこちらの記事に色々書き込みました。今回は前者について。
ねえ。オタク評論家ってどういう職業なんだい?
テレビ朝日の報道番組で、岡田氏の肩書きを見て思った事。
オタクって皆、自分の趣味について「ひとくさり」話を出来るんじゃないか。
仮に、オタクの総論を語る人間だと解釈したとして、本当にオタクの諸派を評論するならやはり各論は必須なわけで。各論を取りまとめたのが総論であり、オタクの評論に繋がるのではないかと思うわけです。
我ながら分かり辛い最低な駄文を並べておりますが、テレビ朝日にオタク評論家とか言って出るのはやめて欲しい。オタクの評論ってのがどれだけ分かってないのかが良く「分かる」。
今や『オタク』と言う単語には様々な属性とレッテルが盛り込まれ、その全容を把握しているものなど恐らくは居ない。だからこそ面白く、文化の発生や伝播を文化地理学的観点から眺めるに適していると私は考えている。
(卒論か、自主的にかは未定ですが「文化伝播と固着」を研究してます)
入り口を見ただけで、全てを知ったかのような口振り。
初心者が陥りがちな先入観による決めつけでしかないこういった行動は、
ひとえに自分の無能を晒すのみならず、周囲に多大な迷惑をかける事を忘れないで欲しい。
ジャポンは黄金の国だとか、ここは西インドだと言って、今日まで語られる(アメリカ大陸には未だに西インド諸島がある)ミスリードになりかねない。影響力がある人間は、その力にあぐらをかくのではなく、貪欲に事実の探求をして欲しい。それが出来ない人間が評論家などと名乗るのは大きな間違いだ。
評論家とは、他人の研究を評価して的確に論じなければならんのだから、
基礎的事項は全て踏まえていないといけないはずだが、
創9・10月合併号(2006)の中で自分はオタクではないといった論を展開している。
更に、「オタク共通の誇りや共通の文化のようなものがなくなってきている」
とも発言している。引き合いにインディアンがコーラを飲んでTシャツを着ていたら、それはもうインディアンではないなどと言っているが、ならば我々日本人は着物を捨て、髷を捨て、肉を食うようになった明治以降は日本人ではなくなったのかと、問いたい。
ALWAYS~三丁目の夕日~などに代表されるように、現代の日本人は高度経済成長の頃を眺めて「古き良き日本人」「あるべき日本人像」を思い浮かべるのである。今の時代江戸の世が良かったと思う人間は居ないわけである。
何が言いたいのかといえば、単なる懐古主義であり、ペシミストであり、
オタク文化における多様化の波に取り残された年寄りが、
「今のオタクはダメだ」「昔は良かった」と言っているに過ぎない。
本人は同誌内でそれを否定しているが、そんな物は当時ネット上に溢れかえっていた反論に対する脊髄反射的な自己擁護でしかない。
明治時代は江戸が良かったと言い、昭和は大正・明治、平成は昭和が良かったと言う。
そして今、古参のオタクと言うか、昔はビョーキと自嘲気味に自らを呼称していた集団が、新しくオタクと呼ばれている世代を見て懐古主義に走っているに過ぎない。そもそもビョーキ世代と、我々(萌え)オタク世代を同じ皿の上に盛り付けようとする事自体、私は感心しない。別個の物として捕らえるのが妥当であろう。
同誌内に於いて、オタクはもう死んでるんだからさっさと葬式を出して身軽になろうなどと決別発言をしている人間を「評論家」などと扱うべきではないのではないか。
これからの時代は、
ビョーキ世代(40代のビョーキ世代)
ゲームウォッチ→ファミコン世代(30代のオタ・オタ歴20年前後)
第二期ジャンプ黄金時代(20代オタ・オタ歴10年前後)
ポケモン世代(10代オタ・オタ歴5年以上)
萌えオタ(新参者を多数含む・オタ歴5年未満)
で、論じていくべきであろう。脱オタ宣言した不寛容者など、論客として迎える事自体が無駄である。まるでモンスターペアレンツのように、クレームしか言わない非生産性の高い人間なのだから。
私はオタ歴15年。筋金入りの萌えオタです。6歳から野球をやる傍ら、自分を癒し続けたのは椎名先生のGS美神や、第二期ジャンプ黄金期の名作達でした。15年間マンガを愛した人間、有野課長のように30年弱ゲームを愛した人間と、頭ごなしにあれはオタクじゃないと見過ごしてきた人間。正しく論評できるのはどちらか。
自分の属する集団可愛さに、誤った判断をする可能性もありますが、
少なくとも「萌えオタ、ゲーマー」なんて知らない人間よりはまともに論ずる事が出来るはず。
機は熟し始めているのではないか。そろそろ論壇の世代交代が近い。