自称を含めオタク識者などというものが、「1話Aパートで切った」などと得意満面に語り、こんなアニメを見ている奴は頭がおかしい風なことをいう。実に滑稽だと思う。私の勘違いかもしれないが、オタクとはその分野を好む同好の士の集まりで、ゲームやアニメ、フィギュアといったものを頭ごなしに否定する連中へのアンチテーゼとして存在しているものだとばかり思っていた。しかし、どうもそうでもないらしい。社会的に認められはじめたことで、その中で覇権やグループが生まれ、他者に不寛容となってきているのかもしれない(し、元々そういう生き物なのかもしれない)。このまま社会性を失い、不寛容な生き方を続けて、オタクに未来はあるだろうか。
なぜオタクは社会性が乏しいのか
程度の差はあれ、オタクにはなぜ社会性が乏しいのか。がんばろうとしている人を助けようとせず、あざけってみたり、意識が高いなどと晒してまわるのか。理由はとても簡単なもので、
「オタクは他人を認めるつもりもないのに、他人には認められたくて仕方がない」この一言に尽きると思う。
けものフレンズという作品は、寛容な社会性を持っているか、忘れてしまっていた視聴者(オタク含む)の心を打ったものと推察される。ヒトとして持っているべき社会性を捨てることは、ヒトのみならず、サルやハチ、アリ以下。そうなればもはや、社会性生物とは呼べない。現代社会で荒んだ心に、我々の在り方を示してくれる作品は、渇いた土に雨が降るごとく、我々の心を潤した。だから絶賛する者がいる。一方で、元より社会性を著しく欠いたオタクは、社会生活で心が荒んだわけではない。自身の利己主義や全能感、他人を貶めることで自分の相対的価値を高めようとすることに躍起で、かといって本人の能力も足らず、努力もしないことで認められないだけである。結果、求めるものと現実の差で誰に傷つけられるでもないのに勝手に磨り減っており、常に被害者意識を持ち、攻撃しやすい他者を探している。何が正しいかなどとは軽々にいえないが、少なくとも私は、オタクであろうともこのような精神状態は不健全だと思う。
オタクが認められる世界はない
けものフレンズのなかにたびたび登場する、なんでも「すごーい!」といってくれる状況を単なる「甘やかし」だと受け取って、いい気分になっている者もいるのだろうが、あれは本来ヒトが持っている能力に加えて、人(文明人)としての知識と掛け合わせて使うことでフレンズたちにとって画期的な力を発揮しているから褒められているのであって、ヒトのまま何もしないで褒められているわけではない。サバンナを歩くだけで褒められているじゃないかと反論する者もあろうが、あれだけサバンナを歩けば、偏屈な私だって褒める。暑い中、長距離を移動しても体温調節が容易というヒトの能力を使っているだけだが、とはいえあの辛い環境を歩くという決断はなかなかできない。何もせずとも許される幼児的全能感で満たされたいのであろうが、サーバルに褒められたのは努力の結果でしかないことを見落としてはならない。
一切の努力を拒否したり、努力する者を笑ったり、不寛容が極まったような生き方をする限り、オタクが認められることなどない。識者などというおそらくはオタクのトップらしい連中すらそうなのだから、もはや変わる目などないのかもしれない。オタクがオタクのまま、あなたがあなたのままいるだけで許される世界などない。自然界がそういうつくりなのだから仕方ない。その中で、人がちょっと毛色の違う社会をつくろうとしているのに、それにも協力しないのだから、やはり救われる道などない。
自分が少し犠牲になっても、誰かが大助かりするなら手を差し出す。少々劣っていても、何かの役に立つなら許す。そういった寛容な心なくして、オタクが求めるユートピアなど生まれるはずがない。サーバルがそうしたように、まずは手を差し伸べることからはじめてほしい。または、差し伸べられた手には必ず応えてほしい。それが力不足であったとしても。戦えないなら、紙飛行機を飛ばすのだ。寛容と精一杯の努力。今のオタクに一番足りていないものではないかと思う。改めて強く自戒したい。
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