夏です。ネット万能説などの楽観論やめました。
ネットの未来は明るいとか言って、楽観論ばかりを持ち出すのもそろそろ辞めにしようと思う。ペシミスト化した方が現実に沿ってる。ネットの可能性が!とか言うのはいいけど、それは物事の一面しか眺めてない。総じて今のネットは腐ってる。信じたい奴は信じればいいさ。どれだけ今のネットを見てきたのか知らんがね。
最早ネットはニューウェーブではない。一部専門学校辺りでは教えてそうだけど、んなことはない。既に最新鋭どころか新鋭でもなかろう。ペットボトルやCDと同期だと思って貰って丁度いい。
ネットの入れ物を模索する連中は、箱物行政と同じで小奇麗なホールを作りたがり、それが全てであるかのように言う。入れ物が在ることに意味があり、利用者なぞどうでもいいと考えているのではないかと。彼らはソフト屋のように見えるが違う。実はハード屋だ。気鋭の左派のように見えるが違う。ネットは素晴らしいと繰り返すだけのさながら右派だ。
使っている人間は似つかわしくもない低俗な人間ばかりなのに、智の殿堂であるかのようにネットを扱う。ちゃんちゃらオカシイ。知識ってのはネット上ではなかなか巡り合えない。98%は石で、残りの2%位が玉。ネット上のデータで論文なんか書けないし、書いたところで認められない。これは、学会の頭が堅いのではない。そのデータや論のケツを拭く奴が居ないのに、それに基づいた研究をしたらどうなるか。私はケツが拭けるシステムが出来るまで紙媒体を支持したい。
これはもう学問だけではない。全ての利用者にケツを拭かせるシステムがない限り、ネット万能論を語る理想郷は出てこない。そしてそれは、煌びやかなポータルサイトや、情報が詰め込まれたWiki、多くの議論が為される掲示板では生まれない。自然発生は絶対ありえない。
何故、学校は入試を課すのか。何故、企業は面接をするのか。何故、車の運転に免許が居るのか。もっと身近な例で言えば「何故、アンタは友達を作るのか」だろう。必要と不必要で線引きをする為、使えるかどうかで線引きをする為にこういったことをしている。
ただいたずらに門戸を開けておけば良いというものではない。
ネットは弱者の為の武器?ネットを支配できるのもやはり強者であり、そもそも強者はネット上に姿を見せない。必要な情報は公開せずに内内で回しているに過ぎない。結局、ネットは弱者同士の潰し合い、ストレス発散の場でしかない現状を打破しなければ、規模の大きな落書き帳で終わってしまうだろう。
どうでもいいことだろうが、かのWikipediaにも平気で誤りが書き込まれる。
企業のイメージにそぐわない物は削除される。学問領域でも時々それは起こる。
沖縄の島嶼地域における文化研究の一部に誤った記述を見つけて訂正を求めたが、
一切応じてもらえなかった。誤りを誤りと認めてはならない理由があるからだ。
ネットは何のしがらみもない自由な空間なんて夢物語だということ。
最後に嫌味でもう一度。沖縄のT島には伝統的な赤瓦の建造物の文化は存在していない。
観光に使われる水牛も東南アジアから「観光」の為だけに連れてきた。
沖縄らしさを演出するための捏造された文化だという事実。
認めると観光業界に打撃だし、御用学者が泣いてしまうので変えられないんでしょうね。