いったい、後付けのなにがいけないのか。私にはちっともわかりません。元が編集者だからでしょうか。編集者の仕事は、企画して、書かせて(書いてもらって、ですけど)、軌道修正したり、直したりすることです。後付け設定が悪いことなら、編集者はいてはいけないことになります。
また、後付けが悪いことなら、著者ははじめからすべてを把握して書きはじめなければなりません。さらに完璧さを求める場合は、終幕まで書いてから、出版社に持っていかなければなりません。これでは週間、月刊の連載はほぼ不可能でしょう。
なんでもいいので、ひとつ書いてみるとよろしい。必ずライブ感が出てきます。筆が勢いに乗って、想定もしなかったことをやりはじめてしまうのです。この短いブログの文章でもそうなのですから、超大作ともなれば留まることを知らないでしょう。ちなみにここまででおよそ原稿用紙1枚分だと思いますが、半分はライブ感で書かれています。
週間連載のマンガで10年単位でやっているものは、10年分書くことを決めてからはじめなければならないんでしょうか。連載前に10年かけて構想し、さらに10年かけて絵を書いておけとでもいうのでしょうか。連載が仮に半年だったとしても、ライブ感は出てきますし、作品の整合性を持たせるために軌道修正は行われます。後から設定を足して整合性を持たせることや、後出しジャンケンをするのが悪いことなら、なにもかもが野放図で、読者の理解がまったく追いつかず、著者も白痴丸出しの作品の方が高等だということになります。そんなバカな。
「勇者が冒険に出かけた瞬間に魔王が襲ってこないのはおかしい」に通じるものがありますが、より強い敵が現れ続けることや、ご都合主義で主人公が強くなっていくのはストーリー上必要です。普通、幼稚園児を見知らぬ大人がボッコボコに殴ることもなければ、スポーツの大会でど素人が初戦で世界王者とぶつかることもないように、我々もまた、後付けの物語のなかで成長し、生きているわけです。整合性の取れないことには、言い訳や嘘、真っ当な努力で埋め合わせ、どうにかこうにか今日まできたわけでしょう。
後付けだ、ご都合主義だと過度に責め立てるのはどうなのか。そんな物語も人生も、まっぴらごめんだとは思いませんか。
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