ヴォルテールは全然寛容じゃない
最近、ツイッターでヴォルテールが「君の意見には反対だが、君の主張は命を賭けて守ろう」といったという寛容論のイラストを見かけました。そして、大変拡散されておりました。まあ、書いてあることはいいことです。本来、言論の自由とはそういうことです。でも、ヴォルテールはそんなことをいっていないし、まるで寛容でもないのに「寛容論」とかいっちゃった人です。
ヴォルテールはいまとなっては単なる狂人
ヴォルテールは決闘罪で捕まってます。人によれば2度捕まったとする資料もあるようで、全然寛容じゃない。気に入らなければ決闘です。デュエリストなんです。では、ヴォルテールの寛容とはなにかというと、「キリスト教」のなかでの寛容なんです。当時はキリスト教のなかで宗派対立が鮮明化していて、「あの村へ行って異なる宗派の人間を殺せ。同じ宗派の人間を間違って殺しても神様が選別してくれるから村ごと皆殺ししとけ」と法王がいってたというんですからトンデモナイ時代です。
そんな時代に、いくらなんでも無茶が過ぎる!寛容の精神で!!といったのがヴォルテールです。自分はデュエリストで国外へトンズラこくような身分なのに。
ヴォルテールは人種差別主義者でした
そんなヴォルテールですから、寛容の精神を発揮するのはキリスト教のなかでだけです。キリスト教以外を信仰している人間なんぞ、人とも思っておりません。人でないものはどうなろうと知ったこっちゃありません。
特にユダヤ人に対しての不寛容といったらありませんでした。劣等種だからどうのこうのと常々いっていたんです。でも、キリスト教改革のための著作だけ読めばすごい人格者に見えちゃうもんで、ヴォルテールは立派!今の時代こそヴォルテールのような心を持たないとダメ!!って賞賛されちゃうんですね。
みんながヴォルテールのような精神を持つと、ドイツの総統閣下みたいなことをやることになるけど、ええのんかい、と。
これからの時代の寛容について
寛容の精神は大切です。でも、不寛容を寛容してはいけません。ヴォルテールの時代はそれで許されていたわけですが、いまとなってはヴォルテールの寛容は不寛容の部類です。
「特定の思想や民族、文化等に対して、否定的な考えや粛清を希望する意見」に対して寛容に受け入れちゃダメだってことです。「ユダヤ人は殺せ」という意見も寛容に、平等に扱えっていわれたら、すぐさまNO!といわないといけない。これが現代の寛容です。限定的寛容といってもいいかもしれません。
同様に、少数派などが「多数派を打ち倒せ」といった暴力や過激思想、逆差別といった「闘争」を孕んだ考えにも、寛容になってはいけません。力による解決を望んでいるのを、巧みに隠して人権問題化し、闘争によって勝ち取ろうとするような考え方を寛容に受け入れてしまうと、今度は奪われた側が同様に「闘争」を正当化します。これでは際限がありません。
寛容だの人権だの平等だのを自分の地位の向上や既得権の獲得に使うのは、とっくに古いんです。現代の寛容はもう、そんなところにはありません。といっても、全然理解されないんですけどね。「寛容風」の方がわかりやすくって、人もカネも力も集まりあますからね。
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