学者、つまり科学者について思う事。評論家というのも同じです。御用学者や御用評論家による売らんかなな研究、記事にはお金が付き、真っ当に研究している人達は冷遇されます。評論家や書評家と言って、他人の悪口を言う本を書くと、売名が出来てしまいます。コツコツと地道な研究をしている人間があまりにも不遇です。
研究者は基礎的な研究をする。それを世に発表し、反応を待つ。
この場合の世とは、科学者達の世界であって、一般人ではありません。
Aという学者の論と、Bという学者の論を見比べて、Aを応援したいと思ったCさんが、
「Bはバカ!死んでしまえ!!」
みたいな本を書いてメシを食うというのが、少しでも研究をやった私からすると許せないのです。
自分が考えてきた研究内容で戦うのならまだしも、相手を否定するような内容ばかりで埋め尽くされた、第三者による書籍の方が売れ、その叩き台を作った人間は微塵も利を得ていない。利の為にやっているわけでもないので、それは良いのですが、それにしたって自分が利を捨てて清く研究している事を、後からスッとかっさらって適当にレビューを加えて金にされると、正直腹が立つものですよ。
ですから、私は他人の研究を科学的な方法でもって批判するのではなく、ちょっと報告書を眺めたくらいで、ケチをつけるという「バッシング」が嫌いです。一度でも基礎研究をやってみれば分かるのですが、とてもじゃないが易々と他人の研究を非難できなくなります。そういった経験の無い人が、苦労も知らずに語るんですね。
この流れは、今に始まったものではありませんで、かねてより学者の間でも懸案となっていたようです。
特に、人文科学系のデータや論理に基づかないごまかしの効く研究では、自分の主観でのみ語れる箇所が大多数を占めており、自分の価値観にそぐわない研究や発言を、主観でもって論破しあうという状況が度々起こっておりました。
一番酷いのは、私の知る限りでは「教育社会学」です。
左派的思想の温床とも言え、教育学からも、社会学からも名前を使わんでくれ!と思われているのではないか。
マスコミや政治が教育に及ぼす影響について語り、全ての人間が持つ能力以上に発展的な能力を得、社会を平等にする学問。というのですが、大きなお世話も甚だしい。学問として成立しない似非科学です。
・社会が教育に与える影響は主観でしか語られていない
そこに彼らの暴論と不明、ホルホルがある
・何をもってして良いか悪いかという価値基準はそれぞれなのに、平等を基礎にした彼らの勝手な解釈で社会と教育を語る
彼らにとっての良は絶対的な正義であって、それに意を唱えることや外れる内容一切は無視される
・実践を伴わない空論でしかない
こうすればもっと良くなる、良くなったなどという事は易々とは分からない。それを証明してくださいと言うと、「悪魔の証明」だと言うが、彼らはこうしなかったから悪くなった、悪くなると平気で言う。これもまた証明されていないにも関わらず
これらは、もはや宗教戦争であって学問であろうはずがない。こういう主観的な似非科学を好む人間は、多くの場合研究者として不適格な癇癪持ちや論理的な物言いの出来ない人間、発想力が欠如した人間であることが多い。第一線で懸命に基礎研究を行っている教育社会学者もいらっしゃいますが、たかだか知れている知識を自身の信条とこね合わせて学者を気取りたい左派的な若者に好評のようです。学歴不問、能力不問ですからね。
相手を否定する事は、自分の主観、つまりは自身の肯定であって、持論を否定されるないしそぐわない研究の登場は、自身の否定だと思い込んでケンカを遠方から買いに来る。買ったケンカは「俺理論」によって色々されて「俺」が勝つ。何ともお粗末です。
こんな、他人の努力を拝借して否定し、自身の価値を高めようなどという行為は、ハッキリと申し上げまして、誰にでも出来る事です。それで学者などと言われてはたまりません。誰もやっていない研究だからやっている、時代の先端を走っているとお思いなのかもしれませんが、それは違う。そんな研究はどうでも良いし、無意味だからやられなかっただけです。海外から学問を輸入し、その中で身勝手な解釈を加え(西洋学問は日本に不適な物が多い)て自身の防衛の為に使う。まさに私利私欲の塊です。
学者とは、どこまでも精錬で潔白でなければなりません。
組織に縛られず、自由闊達でなければならない。
御用学者しかり、派閥しかり。
中立な立場で語れなくなった時点で研究者としては失格です。
研究と言うのは実は簡単なことで、
1)問題意識を持つ
2)それについて調べるのに適した対象を選ぶ
3)研究手法を開発するなどしながら研究する
4)結果をまとめる
これだけなんです。
しかし、出来損ないの研究は多くの場合、4)が既に決まっているのです。
「ホニャララは悪いに違いない」など、結論ありきでそちらに誘導し始める。
つまり、4)ありきの1)の設定で、徹頭徹尾、妄想で仕上がってくると。
私のやってきた地理学でも、このような例は掃いて捨てるほどございます。
「商店街を守りたい」という不純な問題意識から、
「商店街を守るにはどうすれば良いか」を考えるようになります。
「商店街に悪影響を及ぼすショッピングモールをやっつけよう」となり、
終始ショッピングモールがその地域にとって悪として扱われる。
しかし、ショッピングモールは便利です。商店街のお店の人からすれば商売敵でしょうが、
利用者からすれば大歓迎かもしれません。そういった視点は、商店街が正義でショッピングモールは悪と思い込んでいますから出てこないのです。結論はもちろん、ショッピングモールが出来ると地域の結束が無くなるとかなんとか言うものになってしまいます。
折角ですのでもう一例。
「牧歌的な田舎の原風景を守りたい」という意識から、
「近代的なビルや商店、カフェなどは悪」だと考える。
「都会は悪であって打ち倒すべき対象」である。
とまあ、やらかすわけです。そんなものは、こういったブログに書けばいいのであって、論文にはならない。
どうして都市化するのか。便利だからでしょう。限られた場所を上手く使うためでしょう?
それを拒むということは、その対価を支払わなければなりません。
時代に取り残されて、人口が流出していく。などです。
こういう事を言う人間の7割がその土地に関係の無い人間です。
こんなに自然が綺麗なのに、壊してしまうなんてとんでもない!などと。
「学者のセンセ」が言うてくれはりますのや。
住んでいる人間からすればどうでも良くて、むしろ便利になるのを喜ぶくらいなのに、住人でもない人間がゴチャゴチャ