私は「萌え」という言葉を支持してきました。しかし、言葉と意味は移ろうもので、現状の「萌え」は支持できない。ですから、かつての私と言っていることが違ったとしても、何ら矛盾ではありません。などと言い訳をしつつ始めましょうか。
まず、整理する意味でかつての「萌え」について考えてみましょう。
かつての「萌え」は「性欲」とは別のものでした。70年代キューティーハニーのような作品は「性欲」の対象でしたが、この原始的な「性欲」という枠組みから外れる作品が幾つか登場し、分類が難しくなってきた。そこで、生まれた複雑怪奇な感情を「萌え」とした。
きんぎょ注意報やヤダモンなどが私の育った時代であるが、この80年代後半から90年代初頭にかけてのアニメ、セーラームーンやおじゃ魔女等が人気を博した中で、性的興奮というよりも、父性愛に近いものや、愛らしい物を愛でたい、見たいという欲求が認知されるようになる。そこで、必然的に生まれたのが「萌え」であり、この言葉は今のように定着していたわけではない。
私は岡田が嫌いなので、天才てれびくんの『恐竜惑星』の主人公、「萌」から取られた説より、セーラームーンの土萌(本来の字とは異なる)ほたる説を押すが、それはこの際どうでもよい。加えて、自然発生した感情にあてがわれたに過ぎず、語源の検証がどれほどの価値があるのか不明である。
古典的な意味での萌えという感情は、基本的に少女マンガやNHKによる。これら作品群は性的な衝動を掻き立てず、それでいてデザイン性が極めてよい。つまり、絵としても、人格としても高い品質を維持していた。つまり、性の対象となるようなサービスが頻繁に行われるものは古典的な意味における「萌え」ではないとできる。
このラインをNHKで見る場合、1990年のふしぎの海のナディアやおばけのホーリー(1992)の分類が難しいことを除けば(性的鑑賞の対象となり得る)、ヤダモン(1993)、飛べ!イサミ(1995)、YAT安心!宇宙旅行(1996)、コレクター・ユイ(1999)、カスミン(2001)となる(内、1994年のモンタナジョーンズに登場するメリッサに対し性的な感情を覚える者も居たが、彼女は人にはとても見えない)。
このようにNHKラインという視座から見ると、分水嶺は1999年コレクター・ユイにあると思われる。この作品は、インターネット勃興に合わせてNHKが作成したもので、ネットの世界(仮想現実)を舞台にヒロインがコレクター・ユイに変身して戦うという変身魔法少女物である。当時問題視された衣装は、今でも一家団欒の夕飯時に見るものではないと感じる。NHK側はネットとその周辺の人間を明確に意識していたことが伺える。
1996年までの曖昧な黎明期を過ぎ、NHKライン、ユイラインを境に2000年には正式に市場として認知されたといえるだろう。
このNHKの認識は、90年代中後半にかけて新世紀ヱヴァンゲリオン、機動戦艦ナデシコといった近未来を意識させられるSF作品の台頭とそこに登場するキャラクター、並びにファンによる影響があったことは想像に難くない。このころは第2期ジャンプ黄金期にあたり、地獄先生ぬ~べ~やるろうに剣心などの作品が殺到し、アニメの世界と市場が一気に膨れ上がった。それにより、社会の認知度も高まり、2004年の秋葉原ブーム以降、オタク、マニアというものに対する偏見と同時に障壁も薄れ、大量に人間がもんどりうって雪崩れ込んだ。
しかし、これは「萌え」の定義を大きく揺るがすことになる。古典的意味合いにおいての「萌え」というものは非常に不安定であいまいな物であり、後発のオタクには理解することが難しかった。そのため、「萌え」の簡略化が進んだ。同時に市場化も起こり、企業が新しい「萌え」の意味づけを支持した。
つまり、「萌え=性欲」と定めたのである。
結果、萌えとは誰でも理解出来る勘定となり、参入障壁が下がり、陳腐化が進んだ。萌えと性の区別が無くなった今、最早「萌え」という言葉の存在意義がなく、どちらかが消滅しなければならないだろう。
古典的意味での「萌え」を意識できる人間の減少ないし、割合としての低下は、古典的「萌え」を大切にしたいと考える立場からしては非常に由々しき事態である。日本的な奥ゆかしさを孕み、自嘲気味に「侘び・寂び・萌え」などといった時代が、僅か10年で終わるというのは勿体無く思う。
今一度、「萌え」の意味合いと存在価値の確認を願いたい。