私が大学1年のときは、ブログをやっているってだけで「超(変)人」扱いだったのに、いまやインスタバエしないと見向きもされない。すごく忙しいと思うし、大変だと思う。
自分の経験から考えてみる。朝から晩までバットを振って、血豆を潰しながらランニング。これで野球の練習は終わった。でも、いまの子は相手の配球なんかをビデオでチェックしなきゃいけない。プロなんてもっとそうなっている。30年前のプロ野球というと、槙原が超豪速球投手で、伊良部が出てくるまで150km/hの後半なんておいそれと見ることがなかった(郭・与田といるにはいた)。ふてぶてしいでぶっちょが、ヤケクソじみたフォームから158を出したとき、潮目が変わった感じがした。で、「プロにならなくてよかった、あんなのぶつけられないで済んだ」と思った。なれやしないのに。
それからしばらくして、本をつくる仕事をすることになって、いろいろと現場をまわらないといけなくなった。デジカメで現場の取材や写真を撮る。こんなの、本来なら写真家の仕事でしょ。編集者がやることじゃない。カメラマンに連絡して、日取りを決めて「じゃあ、そういうことで」という。それまで何日かはある。でも、いまやデジカメ。当時1GBのSDメモリーが1万円くらいしたかな。盗品を売ってたとかで問題になった某店がすっごく安くって、なのに店員が誰も商品の値段を把握してなくって、嫌な予感がしたのを思い出す。で、デジカメ片手に都内と神奈川を行ったりきたり。電車の中では携帯で著者にメールをしながらノートPCで原稿のチェック。仕事に余裕がなくなった。効率がすべてになって、結局はほとんどの人の臨界を超えて、クリエイティブさというか、そういうものが限りなくゼロに近づいてきているように思う。だって、いまや夜の8時に家でナイターなんて見えないし、アフターファイブに赤提灯で一杯なんてできないじゃないですか。あらゆる余裕が消えて、詰め込みに詰め込んで、人が機械化しているんですな。機械が人に変わるはずなのに。我々が21世紀に思い描いた機械やデジタルな世界ってこんなのでしたっけ?
で、思うんです。人生なんつーもんは、常に一番忙しくなるようになってる。いま精一杯がんばることで、将来ラクをしようという考えはあり得ないって。いまみんなががんばれば、それだけ社会が成長する。成長した社会では、がんばるのが当たり前になる。だから、将来はもっと、そのまた将来はもっともっとがんばらないといけない。
がんばるのやめようぜ!とはいわないんだけれども、なにかちがう抜け道があるような気もするんですけど、どうでしょう。
甘ったれたようなエントリーをお読みいただきましてありがとうございます。
やるべきことをやらない近道、ずるを意味するショートカットじゃなくて、無駄なことをやらない近道、スマートカットがないもんか、ちょっとお知恵を拝借したい。
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