学生のとき、『日本は災害大国なのに、今後人口も減って命の大切さは増す一方と考えられる。だから、災害対策産業の輸出に力を入れるべきだし、地震や台風でなにもかもなくなるのに「古きよき〜」なんてここ100年の歴史しかないようなものを持ち上げると、更新されることで生まれる文化がなくなるよ』という話をしたところ、酷く嫌悪感を示されたことを思い出します。ものの言い方もありますし、説明が地名的に下手ですが、本質的に考え方は変わりません。
災害で家は壊れるものだから、その都度最新のものに入れ変えてしまう。だから、どんどん更新されて、新しいものが入ってくるし、受け入れられる。そういった気風が平成になってなくなってしまったように思ううんです。総論として、ですよ。もちろん新しくはなっています。でも、新しいものを嫌う人が増えた。元々守旧派というのはいますけれど、戦後、数十年の文化しかないものを後生大事にするような、「良識的な大人」に、若い世代が妙に押さえつけられるような場面が増えてはいないか、って思うんです。
ちょっと話が逸れてしまいましたね。
災害と暮らしといえば、江戸の街です。江戸の人の家は実に簡素。あんな人口大密集地で火事が起きたらどうするか。放水ポンプはないので、破壊によって消化活動を行います。そのため、誰もが縄を括って引っ張れば簡単に引き倒せるような家に住んだんですね。一見するとみすぼらしい発想だけど、実は真逆で、災害対策として最先端なんです。
なぜって、いまでいうところの「仮設住宅に住むのが粋」だと家ではなく価値観まで変えてしまったからです。それが普通になった。持ち家じゃなく賃貸。身軽に住むから火事でも地震でも、とっとと別の地域に住んでやり直せる。
手に職という言葉も結局は「どこでも食える」という意味であって、昭和以降に押し付けられてきた「はじめに入った会社で定年まで勤めなさい」ではない。終身雇用の歴史なんてせいぜい50年しかない。だって、すでに崩壊しているから。70年ということはいえまい、と。
法人の寿命は、自然人、つまり我々個人より、実はずっと短い。ほとんど10年以内に死んでしまうのに。だのに、1つの会社に勤め上げろなんて価値観の方が異常。異常を正常と思っている人間に騙されたり、操られちゃったら、当然人生なんてまともに歩んでいけません。ちょっと冷静になろう。
で、日本を捨てない限り、こうやって災害は襲ってくる。西日本の豪雨、大阪の地震、台風21号による四国や近畿の大規模停電も片付かないうちに、北海道で大地震。これはもう、仕方ない。東日本大震災も、熊本地震も起こる。だから、これをチャンスと捉えないといけない。怖いといい続けて、手も足も引っ込めたらいけない。人の命が失われるのも、人生を賭けてきたものが奪われるのも耐え難いけれど、日本に生きるなら絶対に避けては通れない。
災害はチャンスだ。新しいものをつくり、つかい、文化さえ生み出す。災害に対する準備をし、もっとできることはないか考え、もっともっと暮らしやすくしていく。人口減少社会のなかで、命の価値が際限なく高まっているいま、人間に命があるからこそやれることを考えてみたい。バックアップさえあれば済むAIやロボットに簡単に置換されない、人間が弱っちいからこそ必死で考えるノウハウ、文化。
そういうものをもっと肯定的に捉えられるようになったとき、若い人たちの眼に希望が満ちてくるのではないかなあ、と思うのです。
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