嫌いなものや、嫌なもののなかには、直感的に嫌だ、生理的に受け付けないという論理性を欠いたものがたくさんあるように思います。しかしながら、嫌いという感情は好きという感情より強いので、論理を挟む余地を与えてくれないわけです。ですから、嫌いだといってくる相手に、論理や法律、習慣を盾に正攻法で責めてもろくなことにはならないわけです。
嫌いなものに時間を割くなんてもったいないよ
直感的に嫌だ、気に入らないという感情がわいてきたときには、さっさとその場を離れることです。とても不思議に思うこととして、いまネット上を見ていると、気に入らないものに度を越して粘着し、執拗に追い込んでこの世から消し去ってしまおうとする人が多いことがあります。
気に入らないなら、放っておけばいいんです。あなたがブロッコリーが嫌いなら、ブロッコリーを出す店からさっさと離れればいい。視界に入っても無視することです。なのに、無視できず「どうして農家はブロッコリーをつくるのか」「冷凍食品コーナーにブロッコリーを置くのはけしからん」と懸命に叫んでいる人の多いこと多いこと。特別実害がないのに、どうしてそこまで必死になるんでしょう。「食べたい人が食べればいいじゃん」では済ませられない事情があるんでしょうか。
嫌い、気に入らないという感覚は、好きという感覚よりすばやく浸透してきます。危険を知らせるサインの方が、快適さを知らせる信号よりすばやく、強く受け取れるように動物がなっているからでしょう。なればこそ、そんなサインに関わり続けると、人間がねじ曲がってしまうと思うんです。刺激が強い劇薬ばかり使用していれば、廃人になってしまうように、そんな強烈な、しかも負の感情を抱くようなものに関わるのはやめましょう。とても無駄なことだと私は思います。
近年、簡単に匿名で論争ができるようになってしまいましたが、負の感情をぶつけてくる人間には関わらないことです。なぜ嫌いなのかの説明を求めてくる人間も相手にしないことです。嫌いなものの理由を説明するのは、好きなものを説明することの何百倍も疲れます。嫌いなものに関われば関わるほど、廃人に近づいてしまうのです。たとえ嫌いなものを根絶したり、拒否してくる相手を論破したとしても、それ以上に大きな代償を払っていることに気づいたほうがいいんじゃないかと思う次第です。
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